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小田原城、難攻不落の歴史をたどる

小田原城といえば城主の代表格北条氏、歴史的な戦いである秀吉の「小田原攻め」の他に、「難 攻不落の城」というキーワードを思いつく方は多いでしょう。実際箱根山、酒匂川、相模灘に囲 まれた地理的条件の上、広大な敷地、そして当時の城主が戦国武将の攻撃に耐えた点を見ればう なずけます。がこれに加え、小田原城が関わった多くの出来事を見てみると、この「難攻不落の 城」の言葉には、姿や主(ぬし)、役割を変えながら小田原城が今も尚存在し続けていることも その意味に込められているようです。 

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小田原城の天守

北条五代の居城となった名城で、上杉謙信や武田信玄の攻撃をも跳ね除け難攻不落の城と呼ばれた。豊臣秀吉の小田原攻めで陥落しなかったが3か月の籠城の末、降伏した。その後、大久保氏や阿部氏、稲葉氏、そして再興された大久保氏などが城主となって続いた。

別名
小峯城(小峰城)、 小早川城(小早川館)
城郭構造
平山城
築城主
大森頼春
築城年
応永24年(1417年)
主な城主
北条氏、阿部氏、稲葉氏 大久保氏
廃城年
明治4年(1871年)

1)前身 

 小田原城の前身となった建築物ができたのは、15 世紀中ごろと考えられています。その頃(室町 時代)に西相模一帯を支配していた大森氏が八幡山の高台に築いた山城がそれです。この山城が できてからの歴史を順を追って覗いてみましょう。 

2)北条氏の時代 

 15 世紀末、戦国大名伊勢宗瑞(いせそうずい)がこの小田原の地に進出し、大森氏に変わり小 田原城を居城とします。彼が後に北条早雲と呼ばれ、小田原城の歴代当主の中でも「北条五代」 と呼ばれた 5 人のうちの初代です。この北条五代の時期に本丸や二の丸ができました。  北条氏が代々城主を務めていた戦乱の時代、小田原城も例外ではなく激動の運命をたどります。 例えば北条氏政の時代、1561 年に長尾景虎、つまり上杉謙信が城下に放火、1569 年には武田信玄 が攻め入り城下に放火といった事件が起こったのです。 

 戦いの時代が続く中、北条 5 代目の当主である北条氏直は 1589 年、豊臣秀吉の攻撃に備える為 に総構(そうがまえ)という要塞造りに着手、小田原城周辺を囲みました。全長 9㎞に及ぶこの総 構が翌年に完成したことで、小田原城はこの時代で日本最大の城となります。 

 土塁(どるい)という盛り土でできた防壁や堀の起伏を楽しみながらめぐれる総構は小田原城 の散策ルートの1つとなっており、北条氏直の建設の苦労を想像しながら当時の名残を多数発見 することが出来ます。 

 1590 年、伊勢宗瑞から 5 代、約 100 年間に渡り小田原城の当主として君臨してきた北条氏の時 代は終焉を迎えます。豊臣秀吉が天下を取る大詰めの戦いとなった「小田原攻め」に倒れた結果 です。 

3)城主の交代劇、城主不在の時期を経て近代化へ、そして災害の受難

 こうして小田原城の城主は、小田原攻めに参戦し活躍を徳川家康に認められた大久保氏にかわ りました。この時、従来の土塁中心で簡素な造りのいわゆる中世城郭だった小田原城は、石垣や 瓦を多く使用した近世城郭に変わりました。その改修工事を実施した大久保氏はその後権力争い に敗れた結果失脚、城は一部取り壊し(破却)の憂き目に遭います。さらに 1614 年から数年間は、 

小田原城は城主がいない、いわゆる番城(ばんじろ)の時を過ごしました。  1632 年から城主となった稲葉氏の時代、小田原城は再整備されまたもや大きく姿を変えます。  実は 1633 年 1 月、駿豆相大地震(寛永小田原地震)が起き小田原城も大きな被害を受けました。 その事もあり翌年の 1634 年から近代化に向けて大規模な改修・新築工事が行われ、40 年余り後の 1675 年、この大工事が終了し小田原城は新しい姿に変身したのです。 

 そして 1686 年、小田原城は再び大久保氏を城主をして迎えることになります。  ところで大久保氏は稲葉氏同様、小田原藩の藩主です。小田原はその場所柄元々関所が設けら れていた程重要な地点でした。この為大久保氏は幕末に至るまでの間小田原城を拠点として関東 防御という大切な役割を担います。この間、小田原城にとってなかなかの試練の時期でした。南 関東駿豆地震、富士山の噴火による火山灰の降灰、武相大地震、嘉永大地震といった天災に加え、 城下で大火も起こったのです。これだけの災害に見舞われたことを考えると、その修復にかかる 労力や費用が膨大なものであることを想像するに難くないでしょう。小田原藩の苦悩が伺い知れ ます。 

 このような状況の下、時代は幕末を迎えるのです。 

4)廃城から役割の大転換 

1870 年(明治 3 年)、小田原藩が廃城届けを提出することにより小田原城は小田原藩の手を離れ ることになりました。因みに廃藩置県は翌年の 1871 年、廃城令が発せられたのは 1873 年で、小田 原城が廃城となったのはその前の出来事となります。そのことから小田原藩の廃城届け提出には、 前述した災害からの修復や通常の維持自体の困難や、幕末・明治維新による混乱といった背景が 伺えるでしょう。この時に多くの建物が解体されました。 

 しかし小田原城はそのまま消え去ることはありませんでした。廃藩置県により小田原城のある 地域は小田原県に、まもなく足柄県、そして後に神奈川県となりますが、小田原城はその支庁の 所在地となりました。更に 1901 年には二の丸(城の中核である本丸の外側を囲む部分)に御用邸 が建てられたのです。残念ながら 1923 年に関東大震災があり御用邸は倒壊、その他の重要な建物 や石垣も崩落しました。 

5)天守閣の復興 

 関東大震災で甚大な被害を受けたにもかかわらず、小田原城はまたしてもその不落ぶりを発揮 します。昭和に入り、隅櫓(すみやぐら)の再建等を皮切りに、小田原城には新たな復活の動き

が着々と進められたのです。そしてついに 1960 年、城の象徴といえる天守閣が復興しました。 1870 年に廃城となってから、実に 90 年ぶりの記念すべき復興です。この流れの中で、二の丸、三 の丸、そして本丸が国の史跡に指定されていったことも忘れてはなりません。小田原市や小田原 城ゆかりの人々の並々ならぬ思いが現在の小田原城を形成しているといえるでしょう。  小田原城は地域に愛されながら、人々の憩いの場としてこれからも歴史を語り続けていきます。 

2 エピソード 

ここで小田原城にまつわる多くのエピソードからいくつか挙げてみましょう。 

1)小田原城 100 年の歴史と共に歩んだ北条五代 

 小田原城の歴史の中で北条氏の存在は欠かせません。小田原城主を務めた 5 人、北条五代とい うのは伊勢宗瑞(いせそうずい、後に北条早雲と呼ばれる)、北条氏綱(うじつな)、北条氏康 (うじやす)、北条氏政(うじまさ)、そして北条氏直(うじなお)です。 

 伊勢宗瑞は備中(現在の岡山県南西部、井原市のあたり)の出身です。静岡県の伊豆で戦国大 名となった後に小田原に進出して居を構えました。 

 伊勢の姓が北条となったのは 北条氏綱になってからです。氏綱は勢力を更に東の方に拡大した 人物で、父親の早雲の遺言に従って菩提寺となる早雲寺を箱根湯本に建てました。  次の北条氏康は、大規模な検地や税制改正を行った人物で、名門今川家から正室を迎えます。  4 代目の北条氏政は上杉謙信と武田信玄から攻撃を受けましたがそれを退けた実力の持ち主です。 豊臣秀吉の小田原攻めの際は既に城主の座を氏直に渡していましたが、敗北により切腹しました。  北条家最後の城主となった氏直は豊臣秀吉からの宣戦布告を受け、総構を構築する等小田原城 の大修築を実施しました。1590 年に小田原城開城された際、高野山に送られ、翌年赦免されるも 病死します。30 年の人生でした。 

2)新堀(しんほり) 

 北条氏時代に総構(そうがまえ)ができる前にあったのが新堀です。 

新堀は天神山丘陵の南側に造られました。この「新堀」という名前は秀吉の小田原攻めの頃に書 かれた文献にも登場しています。小田原城を守っていたこの新堀の跡がその後の発掘調査で見つ かり、その規模が判明しました。幅が 18.5 メートル以上、深さは 9.5 メートル以上という大きな 構造です。現在でもその一部が清閑亭(1906 年に黒田長成の別邸として建てられ、現在は見晴ら しの良いカフェ)の敷地内と、旧MRAアジアセンターがあった場所で見られます。この2地点の間には回遊路があり、2 つの新堀にアクセスしやすくなっています。

3)御用邸としての役割 

 小田原城の二の丸御殿跡に御用邸が落成したのは 1901 年(明治 34 年)のことで、現在は二の丸 広場になっています。明治天皇の皇女子だった昌子内親王と房子内親王の避寒用に設けられまし た。宮内庁が編修された「昭和天皇実録」の中にも皇族が小田原御用邸を利用した記録が綴られ ています。訪れた皇族として、昭和天皇の他に、昌子内親王と房子内親王、(秩父宮)雍仁(や すひと)親王、(高松宮)宣仁親王の名が挙げられます。 

関東大震災で倒壊後、1930 年に小田原御用邸は廃止されました。 

 山城から始まり、現在は地域に密着しながら平和に存在し続ける小田原城。 その歴史の中には時に住人として、時に攻撃する側として、日本を作り上げていった実に多くの 人々が関わっていることが分かります。そんな歴史に思いを馳せながら、様々なスポットを散策 してみてはいかがでしょうか。

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