宇治の平等院は今から1000年ほど昔の永承7年(1052年)、
藤原道長の子で関白の藤原頼通(よりみち)により寺院として創建されました。
それ以前は「宇治殿」と呼ばれる藤原道長の別荘としてあったものを、寺院として改修したのは、
創建当初がちょうど仏教でいうところの「末法」のはじまる元年とされていたことに由来します。
「末法」というのは釈迦入滅後の時代において、仏法が廃れ、正しい悟りと行いが行われなくなる時代と考えられており、
日本では『周書異記』を根拠にして、1052年(永承7年)が末法元年のその年であると考えられていました。
ちょうどその当時、京都は治安が乱れて群盗の襲撃におびえ、
寺社は僧兵などによる強訴が頻発していた時代であり、
院生が始まると共に武士が台頭しつつある時代にもありました。
そうした世相の不安を振り払おうとする京の貴族や皇族などにより、
当時、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を本尊とする仏堂が盛んに造営されました。
平等院もそうした寺院の一つであり、同時にこの時代に建立された寺院としては、
建物・仏像・壁画・庭園まで含めて残存するという点で唯一の史跡でもあります。
創建当初は、密教の主尊である大日如来が安置された本堂をはじめ、不動堂、五大堂、愛染堂、多宝塔などが建ち並んでいましたが、
南北朝時代の争乱により、鳳凰堂(阿弥陀堂)のみが焼け残り、当時の面影を伝えております。
それ以外の観音堂(かんのんどう)や養林庵書院(ようりんあんしょいん)などは、その時代以降に建てられました。
さて、平等院の最大の見どころは10円玉の絵にも描かれた鳳凰堂(阿弥陀堂)ではないでしょうか。
この建物は阿字池の東方に面して建てられており、池を隔てて西方に極楽浄土がある様子で配されております。
また、鳳凰堂を正面から見た姿が翼を広げた鳥のように見えることと、
屋根上に1対の鳳凰が据えられているところから、後世、江戸時代始め頃より「鳳凰堂」と呼ばれるようになりました。
他にも鎌倉時代の前期に本堂後に立てられた観音堂(かんのんどう)や、
江戸前期に建てられた檜皮葺(ひわだぶき)の養林庵書院(ようりんあんしょいん)などの建造物をはじめ、
鳳凰堂の本尊である阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)や雲中供養菩薩像(うんちゅうくようぼさつぞう)など
仏像や壁画など多くの文化財などが残されています。
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