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史跡紹介

Nishi-honganji 西本願寺

西本願寺
  • 史跡情報
  • 所在地
    京都府京都市下京区本願寺門前町
  • 関連人物

開祖である親鸞聖人の没後に末娘の覚信尼が遺骨や影像を安置するため、京都東山の大谷に廟堂を建てたのが西本願寺の起源とされています。
廟堂はその後、各地を転々とし、天正15年(1591年)に豊臣秀吉より現在の京都七条堀川の地を寄進され今に至っています。
桃山文化を代表する唐門、阿弥陀堂・御影堂など見どころがあります。
1994(平成6)年には、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。

史跡「西本願寺」のポイント紹介

  • かつて西本願寺と東本願寺は一つだった!?

    京都に来ると、名前が似ている二つの寺院「西本願寺」と「東本願寺」があり不思議に思われる方も多いのではないでしょうか?また、歴史の教科書では「本願寺」というのが出てきますが、これと関係あるのだろうかと思われる方もいると思います。
    西本願寺と東本願寺はもとは同じ「本願寺」であり、江戸時代の初め頃に東西に分かれて現在に至りました。江戸時代を通して仲の悪かった二つの寺院ですが、今は真宗教団連合という組織で互いに交流し仲良くしております。
    本願寺が二つに分裂した切っ掛けは、戦国時代に起きた「石山十年戦争」とその後の「関ヶ原合戦」とが関係してきます。石山十年戦争はかつて本願寺の本山であった石山本願寺と織田信長との間で続いた戦争で、かつて石山本願寺があった場所が現在の大阪城となることからわかる通り、そこは難攻不落の砦であったためなかなか攻略できませんでいた。
    そこで信長は正親町天皇(おかちまちてんのう)による和睦を持ち掛けたのですが、この時、徹底抗戦を主張したのが後に東本願寺の法主となる教如でした。
    法主である顕如と三男・准如は和睦を受け入れ、現在の西本願寺の場所に寺領の寄進を受けますが、長男の教如は廃嫡され隠居させられたのでした。
    後に関ヶ原合戦が起こり西軍側についた准如とは別に、教如は徳川家康に接近し、合戦後に烏丸七条に寺領が寄進され、現在の東本願寺となりました。
    ここには、本願寺の勢力を削ごうとする家康による深謀遠慮があったともされています。(続く)
  • 親鸞と歎異抄「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」

    本願寺といえば宗祖・親鸞ということになりますが、
    親鸞といえば法然と並んで声明念仏を広めた立役者のひとりです。
    具体的には「南無阿弥陀仏」を唱えて、あまねく衆生を救う本願を立てた阿弥陀如来の慈悲にすがり
    極楽浄土に往生しようという教えであり、一般には「他力本願」の教えとされています。
    他力本願というと悪いイメージを持たれますが、他人任せという意味ではなく阿弥陀如来の「他力」にすがるという意味になります。その親鸞の教えは弟子の唯円が著した「歎異抄」にまとめられていますが、その中の一節に衝撃的な内容があります。
    「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」
    逆ではないかと思ってしまう内容ですが、ここでいう悪人というのは、仏教の説く理想の境地に到達できない人くらいの意味であり、阿弥陀如来は慈悲深いゆえに、そういった出来の悪い人たちをこそ目をかけ救ってくださるというくらいの意味だと思います。
    もっとも、深遠な仏教の教理から見れば我々は一人残らず「落ちこぼれの悪人」であるにも関わらず、「自分は正しい」という自惚れををもって生きているのではないでしょうか?そういった自惚れをはぎ取り「本当の自分」に向き合った時にはじめて弥陀が差し伸べる救いの手が見えるようになるのかも知れないですね。
    そういえばキリスト教にも「山上の垂訓」という難解な箇所があり、マタイ伝曰く、
    「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」
    「心の貧しい人々」というのはケチな人という意味ではなく、「自らの足りなさを知り神を求める人々」くらいの意味だと思うのですが、逆説的な文言で興味を引き付け、慢心をはぎ取り自己に向き合わせる力をもつ言葉としては共通である気もしますね。
  • 織田信長と石山戦争

    (近日公開)

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    西本願寺

    開祖である親鸞聖人の没後に末娘の覚信尼が遺骨や影像を安置するため、京都東山の大谷に廟堂を建てたのが西本願寺の起源とされています。 廟堂はその後、各地を転々とし、天正15年(1591年)に豊臣秀吉より現在の京都七条堀川の地を寄進され今に至っています。 桃山文化を代表する唐門、阿弥陀堂・御影堂など見どころがあります。 1994(平成6)年には、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。

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史跡「西本願寺」の口コミ Googleの口コミより出力

  • 投稿者:Haruhiko Yamada

    評価:5

    まあ、西本願寺とか東本願寺とか、全部本願寺で、東が浄土宗、西が浄土真宗。最初は東からスタートかなぁ? お堂に一礼して(仏様行ってきます)と挨拶して出掛けるのが作法かも?? 阿弥陀堂だけ仏教徒が、小乗仏教かな?? 南無阿弥陀仏ならナンマンダブ[完] うーん、最初から大丈夫仏教?? いや、大乗仏教? あなたは御仏から開始でしょうか?

  • 投稿者:Hiroshi Iwai

    評価:4

    訪れた時は雨でした。傘をたたく大きめの雨音から一転、本堂から聞こえてきた読経に導かれて、一般の方の法要にお邪魔しました。銀杏の木も印象的ですね。ブックセンター?にもお邪魔して、記念の品を買わせていただきました。とても心静かな時間を過ごさせていただきました。

  • 投稿者:大谷秀行

    評価:4

    京都でも有数の大きなお寺です。特に目を引くのが阿弥陀堂等の立派なお堂です。書院や飛雲閣等の文化財として価値があるものもあり、見どころ満載です。 コロナ禍のせいか、私がお参りした時は、人影はまばらでした。

  • 投稿者:Kaz Cov

    評価:5

    一日に4回実施されている「お西さんを知ろう」という30分ほどのツアーに参加すると、建物の由来などを教えていただけます。お坊さんが案内してくださいます。ほぼ毎日、ご法話もあるので、ぜひ聞かれることをおすすめします。

  • 投稿者:やまちゃん。

    評価:5

    非常に素晴らしいです。 迫力満点で見応えあります。西本願寺と東本願寺のセットで対を成していますが、個人的には西本願寺の方が良かったです。 東本願寺よりは少し人が少ない感じがしたのと、天井からぶら下がっている照明がインパクト大でした。 2022/04/09(土)

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西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派の本山の寺院。山号は龍谷山(りゅうこくざん)。本尊は阿弥陀如来。正式名称は龍谷山本願寺、宗教法人としての名称は本願寺である。本願寺住職は浄土真宗本願寺派門主を兼務する。真宗大谷派の本山である東本願寺(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。京都市民からはお西さんの愛称でも親しまれている。

文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建された。その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した(詳細は後述「歴史」の項参照)。

2023年より銀杏と御影堂、阿弥陀堂の2つのお堂をモチーフにしたブランドロゴとともに、「人はひとり。だからこそ、ご縁を見つめたい。」をタグラインとして定めている。

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