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史跡紹介

Anjyo-jyo 安祥城址

安祥城址
  • 観光情報
  • 史跡情報
所在地
愛知県安城市安城町赤塚1
アクセス
【鉄道】
名鉄西尾線 南安城駅から徒歩12分。
【バス】
あんくるバス(市内循環バス)- 1番系統安祥線(川島行き)「歴史博物館」下車。JR安城駅より10分、名鉄南安城駅より6分。
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別名
安祥森城、安條古城、森城、安城城
城郭構造
平山城
天守構造
なし
築城
和田親平
築城年
永享12年(1480年)
主な城主
和田氏、松平氏、織田氏
廃城年
永禄5年(1562年)
遺構
切岸・堀・曲輪

三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった城で、現在は安祥城あんじょうじょう址公園として整備されています。跡地には安城市歴史博物館や安城市民ギャラリーなどがあります。

  • 安祥松平氏の系統からうまれた徳川家康

    はじめは永享12年(1440年)に、畠山氏の一族である和田親平により居館として建てられたと伝わっているが、後に応仁・文明の乱の頃には、松平3代目の松平信光によりこの安城と岡崎城の2城が攻略されている。 その後、4代親忠が安城松平家の初代となり、この系統から松平清康が生まれ、のち清康により本拠は岡崎に移されるが、この清康の孫として後の徳川家康が生まれている。

  • 徳川家の「三つ葉葵」の家紋はここから

    かつて松平信光がこの安祥城を攻めた時に酒井親清に「三葵の葉」の家紋を与えたが、その後、松平長親の時代の文亀元年(1501年)9月に、北条早雲と岩津城下の合戦にて勝利した折、先陣の酒井左衛門尉・氏忠・入道浄賢の働きが素晴らしかったので、これを顕彰し、かつて松平信光が与えた「三ツ葵」を変換してもらい、以降これが徳川家の家紋となったと伝わっている。

  • 織田・今川の争奪戦の舞台となった安祥城

    安祥城は本家である安祥松平氏の居城であると同時に、織田、今川との間で奪い合いが繰り広げられた。 天文9年(1540年)には織田信秀が落城させて城代に庶子で長男の織田信広を置いているし、天文18年(1549年)に松平広忠が病死すると、今度は今川が太原雪斎に約1万の軍勢を率いさせて安祥城攻略し、城代の織田信広を捕縛している。 ちなみに、この時捕縛された信広は人質として尾張の熱田にいた竹千代(後の徳川家康)との人質交換として使われ、その後竹千代は駿府に連れていかれそこで養育されている。

  • 清洲同盟により価値がうすれ廃城となる

    桶狭間の戦いで今川義元が横死すると、松平氏は独立し織田との間に清洲同盟が締結される。この同盟により安祥城の戦略的な価値が薄れ、永禄5年(1562年)ごろに廃城となった。

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  • 織田信秀

    織田信秀「尾張国内の勢力拡張編」④最晩年の苦闘

    前回の記事では織田信秀が朝倉と共に美濃の斎藤道三へ攻め込み、稲葉山城(現在の岐阜城)を攻撃して大敗するまでを書いた。 命からがら尾張に逃げ帰った信秀であったが、この勝利の余勢を駆って後に斎藤道三が大垣城を攻めた。信秀は大垣城救援のため木曾川を渡って美濃に乱入しあちこちに放火したが、これに驚いた斎藤道三は稲葉山城に引き上げている。 一方、信秀は三河においては快進撃を続けていた。西三河の安祥城を攻略して、さらに岡崎城を攻撃し三河の国人である松平広忠を降伏に追い込んだ。広忠は嫡男の竹千代(後の「徳...

  • 織田信秀

    織田信秀「尾張国内の勢力拡張編」③斎藤道三との戦い

    前回の記事では織田信秀が西三河の安祥城、岡崎城と攻略し松平広忠を降伏させて広忠の嫡子・竹千代を人質にとるまでを取り上げました。竹千代は後の徳川家康であり、この時に織田家の捕虜となり、その後2年ほど熱田で育つことになります。 当時10代の織田信長が竹千代と会ったかどうか確実な資料はありませんが、おそらく何どか会ったことはあるかも知れません。 一方、織田信秀は美濃方面へも勢力拡張をはかります。 その頃の美濃は守護の土岐家が力を失い実質的に斎藤道三が権力を握っていました。斎藤道三の父...

この史跡が登場するエピソード

  • 安祥城での対立

    織田氏と松平氏の争奪戦の対象となった安祥城

    かつて安祥城は安祥松平家(徳川本家)の居城として重要な位置をしめており、しばしば織田と松平の争奪戦の舞台ともなりました。 清康が家臣に殺される「森山崩れ」が起きて松平氏が弱体化すると、織田信秀が落城させ、織田信広を城代において支配するようになります。 その後、松平広忠これを取り戻そうと軍勢を送り戦うも目的をはたせず、かえって織田信秀に岡崎城を攻撃されて降伏するという結果になりました。 嫡男の竹千代が織田の人質としてとられたのはこの時の事でした。 こうした中で弱体化した松平は松平広忠は今川義元...

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史跡「安祥城址(安城城址・安城城跡)」の口コミ Googleの口コミより出力

  • 投稿者:玉木造

    評価:4

    ▼古くは家康の先祖、安祥松平の居城でした。 ▼家康が尊敬して、その諱の一文字「康」を貰い「元康」「家康」を付けたことで有名な祖父・清康の代で、この城から岡崎城へ松平家は居城を移します。 ▼その後、家康の父・松平広常(ひろただ)と織田信長の父・信虎の争奪戦が繰り広げられる城となったのです。 ▼天文16年(1547年)9月、岡崎城は隣国・尾張(愛媛)の織田信秀に攻略されます。この時、竹千代の父・広忠は、若干6歳の竹千代を織田方に差し出すことで恭順の意を示します。(「本成寺文書」より。諸説あり。) ▼ところが、ところが。2年後の天文18年(1549年)今川義元の軍師・太原雪斎が織田の安祥城を攻め、城主・織田信広(信長の兄)を生捕ります。 ▼そして、庶子である信広と竹千代の人質交換を織田信秀(信長の父)に持ち掛けるのです。 ▼安祥城は岡崎城の西隣にある城であることから、三河衆にとっては、勿論、大きな脅威であったことから、懸命に織田方より奪回したこともあるのでしょう。 ▼ただ、岡崎城の当主である松平家の継承者・竹千代が戻ってくるかもしれないという期待があったことは想像に難くないですね。 ▼そんな歴史の要にある城がこの安祥城なのです。

  • 投稿者:小松昌美

    評価:4

    城と言うより寺と言う方がふさわしいと思えるような平城だった。森に囲まれた静寂な佇まいが好ましかった。

  • 投稿者:Hiro Suzu (Kantaro)

    評価:2

    画像が残っていない。また行きたい。

  • 投稿者:Ma K・

    評価:5

    愛史協史跡巡りで行きました。 城祉以外にも物凄く立派なお寺や施設が有り見所が沢山あります。

  • 投稿者:を

    評価:3

    安城松平氏が岡崎に居を移す前にいた城。大乗寺に城址碑が立ち、切岸などもあります。松平氏を語るうえで重要な城ながら遺構に関してはあまり面白くないかも・・(^^;歴史博物館があるので見てから帰りましょう。

会員による投稿

  • 織田氏と松平氏の争奪戦の対象となった安祥城

    かつて安祥城は安祥松平家(徳川本家)の居城として重要な位置をしめており、しばしば織田と松平の争奪戦の舞台ともなりました。 清康が家臣に殺される「森山崩れ」が起きて松平氏が弱体化すると、織田信秀が落城させ、織田信広を城代において支配するようになります。 その後、松平広忠これを取り戻そうと軍勢を送り戦うも目的をはたせず、かえって織田信秀に岡崎城を攻撃されて降伏するという結果になりました。 嫡男の竹千代が織田の人質としてとられたのはこの時の事でした。 こうした中で弱体化した松平は松平広忠は今川義元に協力をもとめるようになります。 天文18年(1549年)広忠が病没すると、同年3月に今川義元は太原雪斎率いる約1万の軍勢で安祥城を攻め、何度かの攻撃の末に落城させます。 城代の織田信広は捕縛され、竹千代との人質交換として利用され竹千代は駿府に送られることになります。 安祥城には主のいなくなった松平氏に代わり、今川によって城番が置かれ(天野景泰、井伊直盛)今川の支配下にはいりますが、 桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、再び松平のものとなりました。 その後、織田氏との間に清洲同盟が締結されるようになると安祥城の価値は薄れ、永禄5年(1562年)ごろ廃城となりました。

    投稿日時 : 2022年08月19日 07時35分
    投稿者 :

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安祥城(あんじょうじょう、あんしょうじょう)は、三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった日本の城。城跡は安祥城址公園として整備されており、安城市指定史跡。跡地には安城市歴史博物館・安城市民ギャラリーなどがある。

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