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史跡紹介

Huruwatarijyo 古渡城趾

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所在地
愛知県名古屋市中区橘2-8
交通アクセス
名古屋市営地下鉄名 城線東別院駅下車  4番出口より徒歩5分
お気に入り
城郭構造
平城
築城主
織田信秀
築城年
天文3年(1534年)
主な城主
織田信秀
廃城年
天文17年(1548年)
遺構

天文3年(1534年)に織田信秀おだのぶひでが東南方に備えるために築城した城です。
織田信秀は今川氏豊から那古野城を奪うと、嫡男の信長に名古屋城を譲りこの古渡城を拠点としました。
天文15年(1546年)、織田信長は13の歳にこの古渡城にて元服しました。
天文17年(1548年)に信秀は末森城を築いてそこに拠点を移したため、古渡城はわずか14年で廃城となりました。遺構として古渡城跡碑と、古渡城の堀跡を利用した下茶屋公園とがあります。

この史跡が登場する登場人物

  • 織田信秀

    織田信秀

    永正8年(1511年)生~天文21年3月3日(1552年3月27日)没 尾張の戦国大名。尾張の守護代・織田大和守家の庶流である織田弾正忠家の当主で、織田信長の父。 織田弾正忠家の勢力拡大をはかり、尾張国内はもとより美濃、三河にまで勢力を広げ、後の織田信長の勢力拡大のもとをつくる。尾張国内にあっては、名古屋城を奪い経済都市である津島、熱田を抑え、国外にあっては西三河から美濃大垣城にいたる勢力を獲得するも、晩年は西三河を失い、斎藤道三に敗れるなど窮地に立たされる。家督を嫡男の信長に譲る。

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史跡「古渡城趾碑」の口コミ Googleの口コミより出力

  • 投稿者:夏草や兵どもが夢の跡

    評価:5

    毎日主人と車で通っている山王通り沿いにありました。 最近、信長が満十二歳で元服して、三郎信長を名乗られた城だと知り、地下鉄に乗り改めて見に行って来ました。毎日交通量が多い道路の通勤は大変ですが、この場所が信長ゆかりの城跡だと分かってから通勤がとても楽しくなりました。 *信長の居住城ではありません。父信秀様の居住城でした。信長の当時の居住城は、那古野城です。 ここまでのアクセスはとても良く、地下鉄「東別院」駅4️⃣番出口を出て、目の前の信号を渡って200mほど歩いて右側にある大きな寺(東別院)の中に入って左手にあります。広い寺の敷地の南西にひっそりと石碑だけが建ってます。 この城は、織田信秀様が1542年(天文11)経済的基礎となる熱田を掌握し、四方を二重の堀で囲い東(今川義元)からの攻撃に備えるため築城されました。信秀様がそれまでいた那古野城を信長に譲り、その後、信秀さまは末森城に移り、信長さんも清洲城に入ったために廃城となりました。 遺構は殆ど残ってはいませんが、ここら辺一帯は城跡で、東隣のメーテレ、その北のスタバも城の一部で、下茶屋公園の池は古渡城の堀を利用して作られたそうです。当時は東西140m南北100mの平城でした。 24時間営業ではありませんので、行かれる方は、寺の閉門時間がありますので、確かめてから行かれて下さい。広い無料の駐車場もあります。

  • 投稿者:Toshi Andy

    評価:3

    ⭐️1690年、昔々の織田信秀居城/古渡城址の約1万坪を尾張藩2代藩主/徳川光友が真宗東本願寺に寄進❗️ なので古渡城址は東別院の敷地内とは、石碑だけで何となく寂しいですが😅 実際に使用されたのは14年間で廃城、廃城1548年から寄進される1690年まで何があったんですかね、野っ原でしょうか⁉️ ⭐️織田信秀の城郭遍歴⭐️ ・勝幡城…津島湊・津島神社を掌握 ・那古屋城…1532年今川氏豊から奪取 ・古渡城…1534年築城、熱田湊や熱田神宮周辺を支配、東南の三河に対する備え ・末森城…1548年東の丘陵部に築城、今川氏&松平氏進攻に対する防衛拠点強化❗️ ★織田信秀…1552年、末森城で死去、42歳

  • 投稿者:成瀬主水正輝勝(主水正)

    評価:3

    尾張国愛知郡に1514年天文3年織田信秀により築城された平城でした! 織田信長が、13歳で元服した城として知られてます! 1548年織田信秀が、美濃侵攻した留守に、守護代織田信友の、家来坂井大善らが、攻め寄せ町は焼けたが、落城はしませんでした! 同年に信秀は、末森城🏯を築いて移り、1548年天文17年に、廃城となりました!

  • 投稿者:Takahiro Yasui

    評価:5

    織田信長が元服(1546年)した城として知られています。 1534年、織田信秀(信長の父)が、今川家や岡崎城主・松平清康からの反撃に備えて、築城したのが古渡城となります。信秀は今川氏豊から奪った那古野城を、吉法師(織田信長)に譲り、この城を拠点としました。 四方を二重の堀で囲んでいたと言います。 1548年に、織田信秀が美濃へ出陣し、その隙きを突いて坂井大膳らが古渡城を攻撃しました。城下町は消失するも、古渡城は落ちなかったようです。しかし、1548年、織田信秀は末森城を築くと、新たな居城としました。古渡城はわずか14年で廃城となっています。 東本願寺名古屋別院の境内に、古渡城跡碑が建っています。境内に入ると左手にあります。別院に隣接した下茶屋公園は、古渡城の堀跡であったとされます。

  • 投稿者:YUMA

    評価:5

    桜が見頃でとても素晴らしかったです。 桜吹雪も見に行きたいですね。

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