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史跡紹介

Gifu-jyo 岐阜城

岐阜城
  • 観光情報
  • 史跡情報
所在地
岐阜県岐阜市天主閣18
交通アクセス
JR東海道本線「岐阜駅」11番、12番、13番乗り場
および
名鉄名古屋本線「名鉄岐阜駅」4番乗り場
岐阜バス行先番号「N32」〜「N86」の「岐阜公園・長良橋・高富方面」行き、
または
「市内ループ線(左回り)」で約15分。
「岐阜公園・歴史博物館前」下車、徒歩約3分で金華山ロープウェー「金華山麓駅」、金華山麓駅からロープウェーで「金華山頂駅」まで約3分、金華山頂駅から天守まで徒歩約8分。
公式サイト
https://www.city.gifu.lg.jp/kankoubunka/kankou/1013051/1005097/1005098.html
お気に入り
別名
稲葉山城、金華山城、井口城、岐阜城
城郭構造
山城
天守構造
望楼型4重5階(1567年築・非現存) 独立式望楼型3重4階(RC造復興・1956年再建)
築城主
二階堂行政
築城年
建仁元年(1201年)
主な改修者
織田信長
主な城主
斎藤氏、織田氏
廃城年
慶長5年(1600年)
遺構
曲輪、石垣、土塁、堀切
再建造物
天守、門

美濃国の井之口の山(稲葉山)にあった城で、もとは稲葉山城と呼ばれた。鎌倉時代からあるものの、本格的に整備されたのは戦国時代の斎藤道三さいとうどうさんの頃と考えられている。1567年、織田信長が稲葉山城の戦いにより斎藤龍興から奪取してからは「岐阜城ぎふじょう」と改められ一時期において信長の居城となった。

この史跡が登場する登場人物

  • 斎藤道三

    斎藤道三

    他に、斎藤利政(さいとうとしまさ)とも。 明応3年(1494年?)生~弘治2年4月20日(1556年5月28日)没 美濃の戦国大名。 美濃の蝮という綽名で知られ、主君の土岐頼芸を追放し美濃の国主となる。 尾張の織田信長の娘婿となり同盟関係を結ぶ。 晩年は家督を子の斎藤義龍へ譲るも、義龍に攻められて殺害された。

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  • 岐阜城

    岐阜城

    美濃国の井之口の山(稲葉山)にあった城で、もとは稲葉山城と呼ばれた。鎌倉時代からあるものの、本格的に整備されたのは戦国時代の斎藤道三の頃と考えられている。1567年、織田信長が稲葉山城の戦いにより斎藤龍興から奪取してからは「岐阜城」と改められ一時期において信長の居城となった。

この史跡が登場するブログ記事

  • 斎藤道三

    織田信長【尾張統一編】第六部:斎藤道三の最後

    斎藤道三には3人の男子がいた。庶子で長男の義龍は天文23年(1554)に隠居した道三に代わり美濃守護代斎藤氏の家督を継いで稲葉山城(今の「岐阜城」)にいたが、その地位は不安定なものだった。父・道三は孫四郎や喜平次らの弟二人を溺愛する一方で長男の義龍を「耄者(ほれもの)※ 愚か者の意」と断じる有様であり、義龍は道三により廃嫡される可能性すらある状況だった。そのような状況の中先に行動を起こしたのは義龍だった。 弘治元年(1555年)義龍は叔父の長井道利と共謀し二人の弟、孫四郎と喜平次らを呼び出すと日根野弘就...

  • 織田信秀

    織田信秀「尾張国内の勢力拡張編」④最晩年の苦闘

    前回の記事では織田信秀が朝倉と共に美濃の斎藤道三へ攻め込み、稲葉山城(現在の岐阜城)を攻撃して大敗するまでを書いた。 命からがら尾張に逃げ帰った信秀であったが、この勝利の余勢を駆って後に斎藤道三が大垣城を攻めた。信秀は大垣城救援のため木曾川を渡って美濃に乱入しあちこちに放火したが、これに驚いた斎藤道三は稲葉山城に引き上げている。 一方、信秀は三河においては快進撃を続けていた。西三河の安祥城を攻略して、さらに岡崎城を攻撃し三河の国人である松平広忠を降伏に追い込んだ。広忠は嫡男の竹千代(後の「徳...

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史跡「岐阜城」の口コミ Googleの口コミより出力

  • 投稿者:Tanaka Takeo

    評価:5

    11月末の日曜に訪問しました。ロープウエイの往復で行きましたが、終点から少しだけ歩きますが、結構急な坂や階段で汗がでました。ただ、その甲斐があって眺望は素晴らしいので是非、訪問されることをお勧めします。急な崖の上のお城なので、難攻不落なのかもしれませんが、ここに建城するのは大変という事と、生活物資をどうやって運んだのだろうと当時の大変さが感じられました。

  • 投稿者:純

    評価:5

    前から一度は行きたいと思っていたのですが、栃木県からドライブがてら家族で行くことができました! 駐車場から公園も近く、ロープウェーであがり、少し歩いて城まで行く行程が楽しいです ロープウェーの中でお姉さんが説明してくれるので、観光地に来た感じがしました 小さい子供やお年寄りには、城までの道のりは大変です 帰りにロープウェーを降りて土産をいろいろ見るのも楽しかったです

  • 投稿者:MM KK

    評価:5

    山の上にあるお城です。今はロープウェイがありますが、建築当時にはそのようなものが無いので、ここにお城を建立することがいかに大変なことか。作業の困難さについて想像ができません。 お城自体はこじんまりとしていますが、来る価値のあるところだと思います。 健脚な方はロープウェイを使わないで登山してみるのもいいでしょう。

  • 投稿者:kazutaka watanabe (カズタカ)

    評価:5

    天守閣から見る都市景観が素晴らしかった。夜になれば、日本三大夜景にも負けないくらいの夜景が見られるに違いない。お城の営業時間は、16時30分または、17時までだが、夜景を見られる期間(ゴールデンウィーク、8月いっぱい、他)は、22時まで営業しているようだ。この夜景はぜひ見てみたい。それを感じられる都市景観でした。

  • 投稿者:Harumi Koseki Torres

    評価:5

    とても綺麗なお城でした。良い運動にもなりますし、また行きたいです。個人的には足を引きずって歩く猫がいたのが気になります。誰か世話をしている方などがいればよいのですが…

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史跡「岐阜城」についての読者投稿

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岐阜城(ぎふじょう)は、美濃国井之口の稲葉山(岐阜県岐阜市の金華山)にあった日本の城(山城)。もとは稲葉山城と言い、鎌倉時代以来の歴史があり、本格的に整備されたのは戦国時代の斎藤道三の時期だと考えられ、織田信長が1567年の稲葉山城の戦いにより斎藤龍興から奪取し、本拠地を小牧山から当城へと移し、その縄張りを破却して新たに造営したものが岐阜城である。『信長公記』に「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されており、ここから天下布武、天下統一をおこなうという意味をこめて、信長が山頂にある城や麓にある町などを「井口」から「岐阜」へと改名したことにより「岐阜城」と呼ばれることになった。

(大きな複合的な城であり)山上の城郭部分と山麓の居館部分を中心としつつも、それらの間を結ぶ登城路、さらに山中の要所に配された砦もあり、なにより山そのものが天然の要害として機能していた。麓に置かれた城主の館は、山の西麓にある槻谷(けやきだに)にあり、地形は斎藤氏 三代の頃に造られ、信長が大規模に改修をし、大きな池の南北に建物が2つあり大きな庭園があったことが発掘調査で分かっており、有力者なども招かれたらしく、ルイス・フロイスが訪れた記録もあり、関ヶ原の合戦の前哨戦のころまで使われていたという。

当城の城主は、織田信長の後は、織田信忠、(信長亡き後に)織田信孝、池田元助、池田輝政、豊臣秀勝、織田秀信らであるが、秀信は石田三成の挙兵に呼応し西軍につき、関ヶ原の戦いの前哨戦の岐阜城の戦い(1600年)で東軍側の池田輝政や福島正則らに攻められ落城、翌1601年(慶長6年)徳川家康によってに当城は廃城とされた。

近年の調査によりこの城の価値が見直されるようになり、2011年(平成23年)に岐阜城跡(ぎふじょうあと)つまり山頂の城の城跡および山麓の織田信長公居館跡を含めた金華山一帯の約209ヘクタール(2,091,602.74平方メートル)が国の史跡に指定された。その範囲は、現在の国有林の範囲に符合する。

なお現在山頂にある建造物は、1956年(昭和31年)に(当時なりに想像し往年の天守を模したつもりで)鉄筋コンクリートで建てた模擬天守である。山麓付近では1984年ころから発掘調査が行われるようになり、現在も発掘が進行中である。山麓の岐阜公園内にある信長公居館跡は、槻谷(けやきだに)を流れる谷川の両側に段々地形が造られ、建物や庭園を配したものとなっている。又、岐阜市によれば山麓にあった庭園を復元する計画がある。

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