大永6年4月29日(1526年6月9日)生~天文18年3月6日(1549年4月3日)没
三河の戦国大名。徳川家康の父。安城松平家8代当主。
父の
小豆坂の戦いで織田信秀の勢力を撃退するも早世。
松平広忠
松平広忠のプロフィール概略
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織田信秀「尾張国内の勢力拡張編」④最晩年の苦闘
前回の記事では織田信秀が朝倉と共に美濃の斎藤道三へ攻め込み、稲葉山城(現在の岐阜城)を攻撃して大敗するまでを書いた。 命からがら尾張に逃げ帰った信秀であったが、この勝利の余勢を駆って後に斎藤道三が大垣城を攻めた。信秀は大垣城救援のため木曾川を渡って美濃に乱入しあちこちに放火したが、これに驚いた斎藤道三は稲葉山城に引き上げている。 一方、信秀は三河においては快進撃を続けていた。西三河の安祥城を攻略して、さらに岡崎城を攻撃し三河の国人である松平広忠を降伏に追い込んだ。広忠は嫡男の竹千代(後の「徳...
織田信秀「尾張国内の勢力拡張編」③斎藤道三との戦い
前回の記事では織田信秀が西三河の安祥城、岡崎城と攻略し松平広忠を降伏させて広忠の嫡子・竹千代を人質にとるまでを取り上げました。竹千代は後の徳川家康であり、この時に織田家の捕虜となり、その後2年ほど熱田で育つことになります。 当時10代の織田信長が竹千代と会ったかどうか確実な資料はありませんが、おそらく何どか会ったことはあるかも知れません。 一方、織田信秀は美濃方面へも勢力拡張をはかります。 その頃の美濃は守護の土岐家が力を失い実質的に斎藤道三が権力を握っていました。斎藤道三の父...
織田信秀「尾張国内の勢力拡張編」②守山崩れと西三河を巡る攻防
前回の記事では織田信秀が那古野今川氏の居城である那古野城を攻略するあたりまで解説しました。 今回は西三河へ進出する織田信秀にスポットをあてて解説していきたいと思います。 謀略によって今川氏豊の居城である那古野城を奪い取った信秀は、そこを拠点に愛知郡に勢力を拡大していきます。そして天文8年(1539年)に古渡城を築くと、次第に第二の経済的基盤となる熱田を支配するなど尾張国内における勢力を次第に確固たるものにしていきます。 一方隣国三河では松平清康が勢いを伸ばし、織田信光が守る尾張の...
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織田氏と松平氏の争奪戦の対象となった安祥城
かつて安祥城は安祥松平家(徳川本家)の居城として重要な位置をしめており、しばしば織田と松平の争奪戦の舞台ともなりました。 清康が家臣に殺される「森山崩れ」が起きて松平氏が弱体化すると、織田信秀が落城させ、織田信広を城代において支配するようになります。 その後、松平広忠これを取り戻そうと軍勢を送り戦うも目的をはたせず、かえって織田信秀に岡崎城を攻撃されて降伏するという結果になりました。 嫡男の竹千代が織田の人質としてとられたのはこの時の事でした。 こうした中で弱体化した松平は松平広忠は今川義元...
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