menu

織田信長【尾張統一編】第三部:平手政秀の自殺と斎藤道三との正徳寺会見

平手政秀、切腹

先の萱津かやつの戦い(現:萱津古戦場跡かやつこせんじょうあと)で織田大和守家おだやまとのかみけを破りひとまずの危機を乗り越えた信長であったが、ここで一つの事件が起きる。
天文22年閏1月13日(1553年2月25日)に、信長の傅役であった平手政秀ひらてまさひでが切腹したのだ。享年62だった。平手政秀は信秀、信長の二代にわたって仕えた宿老であり、かつては斎藤道三さいとうどうさんとの和睦交渉や信長と濃姫の縁談を取りまとめたりと能吏としてもすぐれた手腕を持っており、織田弾正忠家だんじょうのちゅうけの損失は大きかった。
信長は常日頃より派手な服装を好み「髪は茶筅髷を紅色や萌黄色などの糸で巻き、朱鞘の大刀を差して、人目もはばからず栗や柿などをかじり食いながら、いつも人に寄りかかってあるくと」信長公記しんちょうこうきにあるとおり奇行がおおく、平手政秀は常日頃より信長のそうした素行の悪さを諫言してきたが、改善される気配がないことをみて、最後の諫めとして選んだ自死であった。
信長のショックは大きく、彼の死をひどく悼み、後に政秀寺を建立してその菩提を弔った。
だが、その後もしばらくの間、信長の「奇行」は続くことになった。

別説あり
平手政秀の死の理由については、信長と政秀との間にあった不和が原因であったともされている。信長公記によれば政秀の子の持っている名馬を欲しがった信長が、それを譲るよういったところ断られ、根に持つようになったという。

信長と斎藤道三、正徳寺で会見する

織田信長と斎藤道三との正徳寺会見

そんな中、斎藤道三さいとうどうさんから会見の申し出があった。信長が噂通りのうつけものか確認してやろうとの思いからだった。場所は尾張国の富田にある聖徳寺(正徳寺)と決まった。
信長は木曾川、飛騨川を渡って聖徳寺に向かった。富田は人家七〇〇件ほどの豊かな街で往来は賑やかだった。道三は七、八百人ほどの家臣を肩衣・袴姿の正装姿で聖徳寺の御堂の縁にて待たせる一方、自身は町外れの小屋に隠れて信長一行を覗き見することにした。
やがて信長の一行が訪れた時、道三はそのいで立ちに驚いた。
頭は萌黄色の平打ち紐で茶筅髷、湯帷子を袖脱ぎにし着用したうえに、虎皮と豹皮を四色に染め分けた半袴をはき、腕には太い麻縄と、腰には藁縄で巻いた金銀飾りの太刀と脇差、それに猿廻しのように火打ち袋と瓢箪が7、8つほどぶらさげていた。信長はそのいで立ちと共に、7、800人ほどの供の衆を引き連れており、彼らに柄三間半ほどもある朱色の槍が500本と、弓・鉄砲が500挺ほどを持たせていた。

信長は聖徳寺に到着しそして御堂へ入ると、それまでとは打って変わり、折り曲げに結った髷と長袴とに着替え正装して進み出た。そして、居並ぶ斎藤家の家臣が居並ぶ前を通ったかと思うとそのまま縁側の柱に寄りかかって道三が出てくるのを待った。しばらくして道三が登場すると、敷居の内へとはいり道三へ挨拶するとそのまま対面となった。その場で湯漬けが出され盃をかわし、その後何事もなく無事対面は終わった。

管理人ひと言
信長は対面の場にはいると正装して現れた。礼には礼をもって接するといった信長の態度が感じられる。「うつけもの」と噂される表の顔とは違った信長の「本性」を垣間見て、斎藤家の家臣らは度肝を抜かれたはずだ。そして道三が現れるまでの間、縁側の柱に寄りかかって「待つ」といった態度はどうだろうか。道三は娘婿の立場から、本来であれば道三が現れるまでの間、座敷の中ほどで身を正して待つのが道理かと思うのだが、そうはせず、あたかも「この信長は決して道三の下風には立たぬ」といった気概が感じられる場面だ。一つ間違えれば、対面の場を壊しかねない身の振り方だが、信長の威風堂々とした立ち居振る舞いと信長自身から放たれる気(オーラ)のようなものに、道三は何かただならぬものを感じたのだろうか。私としてはそう感じざるを得ない。

その後、信長は道三の帰りを見送ったが、道三はその際に見た織田勢の槍が、自らの軍勢の槍に比べて長いのを知り不機嫌な様子で去っていったという。途中、途中、茜部というところまで来た時、道三の家臣の猪子高就が「やはり信長殿は阿保ですな」といったところ、道三は「この道三の息子どもはその阿保の門前に馬をつなぐことになるのだろう」と不機嫌そうにいったという。この出来事依頼、道三の目の前で信長を馬鹿者呼ばわりするものはいなくなったという。

その後の展開
最後の道三の言葉は太田牛一の『信長公記』に出てくる有名な言葉だが、この会見以降、道三は信長の強力な同盟者となった。道三も戦国時代を生き抜いた英傑のひとりに違いないが、英傑だからこそ同じ英傑を見抜きその才を恐れ、むしろその協力者となって戦国時代をたくましく生き抜こうとしたのだろうと思う。
解説
斎藤道三の娘は帰蝶、または濃姫という。今は亡き父・織田信秀が美濃の稲葉山城(後の岐阜城)を攻略しようとして大敗北した後に、美濃の斎藤道三との和睦をはかり信長の正室として迎え入れた道三の娘である。
昔のドラマではよく信長と濃姫が枕を並べて討ち死にするシーンがあったと思うのだが、今のドラマだとあまり描かれていない様子。そもそも、信長と帰蝶はあまり夫婦仲が良くなかったといわれていているようだ。

コメントを投稿しませんか?
歴探巡旅は旅と歴史をテーマにしたポータルサイトです。
ユーザーの皆様とともにコンテンツを作り上げ盛り上げ交流していきたいという思いのもの運営しております。
写真付きのコメントも歓迎します。
史跡にまつわる逸話や感想など、歴史好きな皆様の投稿をお待ちしております。

この記事についての読者投稿

コメント投稿

コメントを頂けると励みになります。

wp-puzzle.com logo

記事に関連する史跡

記事に関連する登場人物

  • 斎藤道三

    斎藤道三

    他に、斎藤利政(さいとうとしまさ)とも。 明応3年(1494年?)生~弘治2年4月20日(1556年5月28日)没 美濃の戦国大名。 美濃の蝮という綽名で知られ、主君の土岐頼芸を追放し美濃の国主となる。 尾張の織田信長の娘婿となり同盟関係を結ぶ。 晩年は家督を子の斎藤義龍へ譲るも、義龍に攻められて殺害された。

NULL