織田信長【尾張統一編】第二部:萱津の戦い
![地図_萱津の戦い](https://rekitan-meguritabi.com/wp-content/uploads/2022/10/地図_萱津の戦い.png)
織田大和守家は信長の
その信友も次第に年を取り、実権を重臣の
信長はさっそく清州勢を打つべく8月16日早朝に那古野城を出陣した。
そのまま稲庭地の
そして萱津の戦い(現:
まず、信長率いる清州口の本体と
戦闘は辰の刻(午前8時ごろ)にはじまり、数刻ほどの激闘のすえに、中条家忠と
松葉城からも敵方の軍勢が出撃してきて、信長軍と激突した。こちらは辰の刻から午の刻まで戦い、敵方は矢戦によりる負傷者多数により松葉城へと撤退した。
深田城からも敵方の出撃があり三本木に陣を布いたが、守りに不便な地であったため即座に攻め崩され、屈強の武士30人ほどが討ち死にした。
両城の奪還に成功した信長勢は、余勢を駆って清洲の田畑を薙ぎ払うとそのまま引き上げていった。
こうして
合戦の場所に
その石碑表面に歌が一首きざまれてある。
「いにしへの 萱津が原に名をとどむ もののふどもの 夢のまた夢」
うつけと罵られた信長が本領を発揮し戦上手と名声を高めた戦いであった。
その後も、信長と
管理人ひと言
『天文二十年(1551年)八月十六日、当時主人筋の斯波氏を滅ぼして、清洲を占拠していた織田彦五郎信友と那古野城主 織田上総介信長との両軍が決戦を挑んだのが、此のあたりで双方五十余の死者を出した、その後二十余ヵ処の塚として、村民から手あつく祀られていたが、今度區劃整理を行なうにあたり事業完成を記念し、ここに一処に統合することとした。
昭和三十五年十月吉日建之 上萱津土地改良區』
解説
この
この事が切っ掛けとなり、後に斯波義統は坂井大善らによって殺害されるという事件が起きた。この事件を切っ掛けとして信長は、弔い合戦の名目によって次の安食の戦いで
(第三部へ続く)
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斎藤道三
他に、斎藤利政(さいとうとしまさ)とも。 明応3年(1494年?)生~弘治2年4月20日(1556年5月28日)没 美濃の戦国大名。 美濃の蝮という綽名で知られ、主君の土岐頼芸を追放し美濃の国主となる。 尾張の織田信長の娘婿となり同盟関係を結ぶ。 晩年は家督を子の斎藤義龍へ譲るも、義龍に攻められて殺害された。
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