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織田信長【尾張統一編】第二部:萱津の戦い

地図_萱津の戦い

織田信友おだのぶともは織田彦五郎ともいい、清州城きよすじょうを居城とする織田大和守家おだやまとのかみけの当主である。
織田大和守家は信長の弾正忠家だんじょうのちゅうけの主筋であり、織田伊勢守家おだいせのかみとともに尾張を二分する家であった。弾正忠家は大和守家の家臣の家でり、祖父信定の代から勢力を伸ばし主家を凌ぐほどではあったものの、今だ健在であった。

その信友も次第に年を取り、実権を重臣の坂井大膳さかいだいぜん 坂井甚介さかいじんすけ河尻与一かわじりよいち織田三位おださんみらに握られるようになっていた。彼らは信秀存命中より、坂井大膳を中心に、美濃の斎藤道三さいとうどうさんと戦って惨敗し勢力の衰えた信秀に代わり、尾張の主導権を握ろうと画策していた。そして、信秀死後のこの機会を利用して、松葉城と深田城の攻撃を行ったのである。

信長はさっそく清州勢を打つべく8月16日早朝に那古野城を出陣した。
そのまま稲庭地の庄内川しょうないがわ畔で守山城から駆けつけて来た織田信光おだのぶみつと合流すると、兵を松葉口と、三本木口と、信長本隊と信光のいる清洲きよす口の3手に分け、自身は信光と共に庄内川を渡り萱津かやつへと進軍した。この織田信光は、信長の叔父でしばしば信長に協力する間柄であった。
そして萱津の戦い(現:萱津古戦場跡かやつこせんじょうあと)は始まった。

【図解】萱津の戦い

まず、信長率いる清州口の本体と清州城きよすじょうから出撃してきた坂井甚介さかいじんすけの軍勢とが衝突した。
戦闘は辰の刻(午前8時ごろ)にはじまり、数刻ほどの激闘のすえに、中条家忠と柴田勝家しばたかついえにより坂井甚介が討ち取られた。清洲きよす方は50騎が討ちとられ敗走した。
松葉城からも敵方の軍勢が出撃してきて、信長軍と激突した。こちらは辰の刻から午の刻まで戦い、敵方は矢戦によりる負傷者多数により松葉城へと撤退した。
深田城からも敵方の出撃があり三本木に陣を布いたが、守りに不便な地であったため即座に攻め崩され、屈強の武士30人ほどが討ち死にした。
両城の奪還に成功した信長勢は、余勢を駆って清洲の田畑を薙ぎ払うとそのまま引き上げていった。
こうして萱津かやつの戦いは終わった。

合戦の場所に萱津かやつの戦いの石碑が残されている。
その石碑表面に歌が一首きざまれてある。
「いにしへの 萱津が原に名をとどむ もののふどもの 夢のまた夢」

うつけと罵られた信長が本領を発揮し戦上手と名声を高めた戦いであった。
その後も、信長と織田大和守家おだやまとのかみけの対立は続いていくこととなる。

管理人ひと言
石碑の裏面には以下のような碑文が刻まれている。
『天文二十年(1551年)八月十六日、当時主人筋の斯波氏を滅ぼして、清洲を占拠していた織田彦五郎信友と那古野城主 織田上総介信長との両軍が決戦を挑んだのが、此のあたりで双方五十余の死者を出した、その後二十余ヵ処の塚として、村民から手あつく祀られていたが、今度區劃整理を行なうにあたり事業完成を記念し、ここに一処に統合することとした。
昭和三十五年十月吉日建之 上萱津土地改良區』
解説
余談ながら、この戦いは前田利家の初陣でもあったという。

この萱津かやつの戦いでは、清州城きよすじょうにいる守護の斯波義統しばよしむねの家臣・簗田弥次右衛門やなだやじえもんが信長方に内通し、それを受けた信長は清州城を攻め落とそうとしたが果たせず、城下町を焼き払い引き上げていった。
この事が切っ掛けとなり、後に斯波義統は坂井大善らによって殺害されるという事件が起きた。この事件を切っ掛けとして信長は、弔い合戦の名目によって次の安食の戦いで織田大和守家おだやまとのかみけを滅ぼすことになる。

(第三部へ続く)

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