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織田信長【尾張統一編】第五部:安食の戦いと織田大和守家の滅亡

  • 柴田勝家の進軍
  • 清州勢の進軍
  • 清州勢の退却
  • 織田信光の進軍
  • 1

    清州城にて守護の斯波義統が殺害される

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    清州城にて守護の斯波義統が殺害された。これは織田信友の家臣である坂井大膳らによって起こされた事件であり、二人は萱津の戦いにおいて義統が信長に内通したことで不仲になっていた。
  • 2

    斯波義銀、信長のいる那古野城へと難を逃れる

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    父を殺害された斯波義銀は、川狩りの最中であったが、湯帷子姿のまま那古野城の信長の元へ逃れ保護された。
  • 3

    柴田勝家、信長の命を受けて末森城より出陣

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    これを受けて信長は、天文22年(1553)7月18日、柴田勝家に清州攻撃を命じ安食の戦いで難なく清州勢を打ち破る。
  • 4

    安食の戦い

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    柴田勝家、安食の戦いで難なく清州勢を破る。(場所は不確定)
  • 5

    織田大和守家(清州織田氏)の滅亡

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    安食の戦いで敗れて清州勢は清州城に撤退する。窮状打開のため坂井大膳は織田信光に内応を持ち掛けた。
  • 6

    守山城の織田信光、出陣する

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    清州勢の坂井大膳の内応に応じるふりをして清州城にはいった信光はそのまま清州城を乗っ取り、織田信友を自害に追い込む。

尾張守護「斯波義統」の殺害

天文22年(1553)7月2日、清州城きよすじょうでは重大な問題が起きていた。尾張の守護である斯波義統しばよしむねが守護代・織田信友おだのぶともの家臣である坂井大膳さかいだいぜんらによって殺害されたのだ。
前回の「萱津かやつの戦い」において斯波義統の家臣である簗田弥次右衛門やなだやじえもんが信長に内通したことが坂井大膳らに知られ、今回の凶事となった。
坂井大膳、織田三位おださんみ、河尻左馬助、川原兵助らは、義統の嫡男である斯波義銀しばよしかねが屈強な家臣を率いて川狩りに出かけた隙をついて守護邸に攻め入った。立てこもる家臣らの奮戦もむなしく最後を悟った義統は、城に火を懸け一族30余名と共に自害して果てた。

父・義統を殺害された事を知った斯波義銀しばよしかねは湯帷子姿のまま那古野城の信長の元へ逃れ、信長のもとで保護された。ここに信長は国主である斯波義統しばよしむねの仇を討つという大義名分を手に入れ、天文22年(1553)7月18日、柴田勝家しばたかついえに清州攻撃を命じたのだった。
柴田勝家は安食で清州勢と対峙すると難なくこれを撃破し、さらに成願寺へと後退した清州勢を追撃、ついには清州城きよすじょうへと追い詰めた。

織田大和守家(清州織田氏)の滅亡

主だった家臣を失い窮地に追い込まれた坂井大膳さかいだいぜんは一計を案じることで状況の打開を図った。信長の叔父である織田信光おだのぶみつに内応を持ち掛けたのだ。
その条件として坂井大膳が提示したのは、信光をもう一人の守護代として奉じ、信友の領する尾張下四群のうち二郡を譲り渡すというものだった。信光はこれを承諾し内応する旨を伝えたが、それは偽りで、裏では信長にこの事を知らせ、信光が城内に入ったところで信長側に寝返って城を奪い取る計略であった。

7月20日、信光はかねてよりの計画通り行動を起こすと清州城きよすじょうを掌握し、守護代として清州城にあった織田信友おだのぶともを主君殺害の罪により切腹に追い込んだ。一方、坂井大膳さかいだいぜんは信光の計略に気づき、事前に城を捨て今川義元いまがわよしもとのもとへと逃亡した。ここに織田大和守家おだやまとのかみけ(清州織田氏)は滅亡した。

その後の展開
坂井大膳は今川義元の元へと身を寄せたがその後の消息は分かっていない。

信長は叔父の信光を軍功第一とし、かねてよりの約定通り信光に那古野城を譲り、自身は斯波義銀しばよしかねを擁して清州城きよすじょうへとはいった。
ところがそれから程なくして織田信光おだのぶみつは家臣の手により殺害されてしまう。
かつて信光は安食の戦いの折、信光に尾張下四群のうち庄内川しょうないがわを境として西二郡を信光の領地とする取り決めを交わしていたが、彼の死によりこの約定は立ち消えた。

解説
太田牛一の「信長公記」では『思いがけない巡りあわせが起こって信光は亡くなったが信長にとっては幸運の種だった』としているが、信長の謀略であった可能性もある。
管理人ひと言
かくして尾張に守護代として織田大和守家は滅亡した。尾張にはほかに尾張上四郡を支配する織田伊勢守家(大岩倉織田氏)が健在である一方、同母弟の織田信勝は不穏な動きを見せあわよくば織田弾正忠家の家督を奪い取らんと虎視眈々としている状況だった。ほかに、犬山城の織田信清も今は協力的であるものの、後に信長に反旗を翻すことになるなど、尾張統一への前途は多難な状況だった。

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