織田信長【尾張統一編】第三部:平手政秀の自殺と斎藤道三との正徳寺会見
平手政秀、切腹
先の
天文22年閏1月13日(1553年2月25日)に、信長の傅役であった
信長は常日頃より派手な服装を好み「髪は茶筅髷を紅色や萌黄色などの糸で巻き、朱鞘の大刀を差して、人目もはばからず栗や柿などをかじり食いながら、いつも人に寄りかかってあるくと」
信長のショックは大きく、彼の死をひどく悼み、後に政秀寺を建立してその菩提を弔った。
だが、その後もしばらくの間、信長の「奇行」は続くことになった。
別説あり
信長と斎藤道三、正徳寺で会見する
そんな中、
信長は木曾川、飛騨川を渡って聖徳寺に向かった。富田は人家七〇〇件ほどの豊かな街で往来は賑やかだった。道三は七、八百人ほどの家臣を肩衣・袴姿の正装姿で聖徳寺の御堂の縁にて待たせる一方、自身は町外れの小屋に隠れて信長一行を覗き見することにした。
やがて信長の一行が訪れた時、道三はそのいで立ちに驚いた。
頭は萌黄色の平打ち紐で茶筅髷、湯帷子を袖脱ぎにし着用したうえに、虎皮と豹皮を四色に染め分けた半袴をはき、腕には太い麻縄と、腰には藁縄で巻いた金銀飾りの太刀と脇差、それに猿廻しのように火打ち袋と瓢箪が7、8つほどぶらさげていた。信長はそのいで立ちと共に、7、800人ほどの供の衆を引き連れており、彼らに柄三間半ほどもある朱色の槍が500本と、弓・鉄砲が500挺ほどを持たせていた。
信長は聖徳寺に到着しそして御堂へ入ると、それまでとは打って変わり、折り曲げに結った髷と長袴とに着替え正装して進み出た。そして、居並ぶ斎藤家の家臣が居並ぶ前を通ったかと思うとそのまま縁側の柱に寄りかかって道三が出てくるのを待った。しばらくして道三が登場すると、敷居の内へとはいり道三へ挨拶するとそのまま対面となった。その場で湯漬けが出され盃をかわし、その後何事もなく無事対面は終わった。
管理人ひと言
その後、信長は道三の帰りを見送ったが、道三はその際に見た織田勢の槍が、自らの軍勢の槍に比べて長いのを知り不機嫌な様子で去っていったという。途中、途中、茜部というところまで来た時、道三の家臣の猪子高就が「やはり信長殿は阿保ですな」といったところ、道三は「この道三の息子どもはその阿保の門前に馬をつなぐことになるのだろう」と不機嫌そうにいったという。この出来事依頼、道三の目の前で信長を馬鹿者呼ばわりするものはいなくなったという。
その後の展開
解説
昔のドラマではよく信長と濃姫が枕を並べて討ち死にするシーンがあったと思うのだが、今のドラマだとあまり描かれていない様子。そもそも、信長と帰蝶はあまり夫婦仲が良くなかったといわれていているようだ。
記事に関連する史跡
記事に関連する登場人物
斎藤道三
他に、斎藤利政(さいとうとしまさ)とも。 明応3年(1494年?)生~弘治2年4月20日(1556年5月28日)没 美濃の戦国大名。 美濃の蝮という綽名で知られ、主君の土岐頼芸を追放し美濃の国主となる。 尾張の織田信長の娘婿となり同盟関係を結ぶ。 晩年は家督を子の斎藤義龍へ譲るも、義龍に攻められて殺害された。
コメントを投稿しませんか?
歴探巡旅は旅と歴史をテーマにしたポータルサイトです。
ユーザーの皆様とともにコンテンツを作り上げ盛り上げ交流していきたいという思いのもの運営しております。
写真付きのコメントも歓迎します。
史跡にまつわる逸話や感想など、歴史好きな皆様の投稿をお待ちしております。
この記事についての読者投稿