1斎藤義龍は叔父の長井通利と共謀して弟2人を殺害し道三に断絶を宣言した。
3道三と義龍は長良川を挟んで対峙するも、道三は敗れ北野城へと退却していった。
4北野城に逃げ込んだ道三はさらに岩崎山に築いた砦に移動する。
6弘治2年(1556)4月18日に道三は再び出陣して義龍と対決すべく長良川へと向かう。
7長良川の戦いで斎藤道三と斎藤義龍とが再び戦う。道三は敗れ討ち死にして果てた。
8斎藤義龍謀反の報を聞き、道三を救出すべく清州城を出陣する。
9位置は分かりませんでした。おそらくこの辺り?という勘所でマーキングした場所。
結局信長は、ここで道三敗死の報に接し兵を引き上げた。
美濃守護代斎藤家の家督を継いだ斎藤義龍
斎藤道三には3人の男子がいた。庶子で長男の義龍は天文23年(1554)に隠居した道三に代わり美濃守護代斎藤氏の家督を継いで稲葉山城(今の「岐阜城」)にいたが、その地位は不安定なものだった。父・道三は孫四郎や喜平次らの弟二人を溺愛する一方で長男の義龍を「耄者(ほれもの)※ 愚か者の意」と断じる有様であり、義龍は道三により廃嫡される可能性すらある状況だった。
長良川の戦い
そのような状況の中先に行動を起こしたのは義龍だった。
弘治元年(1555年)義龍は叔父の長井道利と共謀し二人の弟、孫四郎と喜平次らを呼び出すと日根野弘就に殺害させた。事の次第を知った道三は怒りをあらわにし、義龍と対決すべく出陣する。こうして弘治2年(1556年)長良川の戦いがはじまった。
だが、この時道三に味方する勢力は少なく、義龍は旧土岐氏の勢力を取り込み有利な条件で合戦に及び、道三方は2,700に対して義龍方17,500ほどの軍勢で攻め立て道三を打ち負かした。そして道三は首をとられ義龍のもとへ届けられた。
別説あり
義龍が父・道三の首実検を行った際「我が身の不徳より出た罪」と出家しこれ以後「はんか(范可/飯賀)」と名乗ったと『信長公記』に記載がある。范可は唐の時代の故事に出てくる人物で、止むを得ない事情により父親を殺した者の名とされてきたという。
織田信長、道三救出に駆けつけるも間に合わず
斎藤道三と同盟を結んでいた織田信長は、義龍謀反の報に接してただちに道三を救出すべく美濃へ出陣したが間に合わず、美濃大良にまで進軍したところで道三を破り士気の高い義龍軍と対峙した。そこへ岩倉城の織田信安(織田伊勢守家)が義龍と呼応し留守の清州付近まで攻め入ったとの報が届いた。信長は自らが殿となって義龍勢の追撃を振り切って尾張へと引き上げた。その途上、岩倉付近を焼き払って退却した。
解説
殿(しんがり)とは負け戦の際に最後まで敵と戦う者たちのことであり、自軍の退却を助ける役割があって危険な役割とされている。退却時、信長は雑人・牛馬を後方に下げると「殿(しんがり)は信長が引き受ける」といって全ての兵を川向うへ退かせ、自身は舟一艘で川に残り、義龍軍の騎馬が川端まで駆け寄ったときに鉄砲を撃った。義龍勢は渡河を断念し信長は退却することができたという。
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