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織田信長【尾張統一編】第六部:斎藤道三の最後

  • 斎藤道三の進軍
  • 斎藤義龍の進軍
  • 斎藤義龍、道三に対して迎え討つ
  • 斎藤道三の退路
  • 斎藤道三の反転攻撃
  • 信長の進軍
  • 1

    斎藤義龍、稲葉山城にて弟2人を殺害する

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    斎藤義龍は叔父の長井通利と共謀して弟2人を殺害し道三に断絶を宣言した。
  • 2

    道三、鷺山城にて出陣する

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  • 3

    長良川にて対峙

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    道三と義龍は長良川を挟んで対峙するも、道三は敗れ北野城へと退却していった。
  • 4

    道三、北野城へと退却する

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    北野城に逃げ込んだ道三はさらに岩崎山に築いた砦に移動する。
  • 5

    さらに岩崎砦へと退却する

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    岩崎砦からさらに城田寺城へ移り体制を立て直す。
  • 6

    城田寺城より再出陣する

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    弘治2年(1556)4月18日に道三は再び出陣して義龍と対決すべく長良川へと向かう。
  • 7

    長良川の戦い

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    長良川の戦いで斎藤道三と斎藤義龍とが再び戦う。道三は敗れ討ち死にして果てた。
  • 8

    信長、清州城より出陣する

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    斎藤義龍謀反の報を聞き、道三を救出すべく清州城を出陣する。
  • 9

    及河原の戦い

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    位置は分かりませんでした。おそらくこの辺り?という勘所でマーキングした場所。 結局信長は、ここで道三敗死の報に接し兵を引き上げた。

美濃守護代斎藤家の家督を継いだ斎藤義龍

斎藤道三さいとうどうさんには3人の男子がいた。庶子で長男の義龍よしたつは天文23年(1554)に隠居した道三に代わり美濃守護代斎藤氏の家督を継いで稲葉山城いなばやまじょう(今の「岐阜城ぎふじょう」)にいたが、その地位は不安定なものだった。父・道三は孫四郎や喜平次らの弟二人を溺愛する一方で長男の義龍を「耄者(ほれもの)※ 愚か者の意」と断じる有様であり、義龍は道三により廃嫡される可能性すらある状況だった。

長良川の戦い

そのような状況の中先に行動を起こしたのは義龍よしたつだった。
弘治元年(1555年)義龍は叔父の長井道利と共謀し二人の弟、孫四郎と喜平次らを呼び出すと日根野弘就に殺害させた。事の次第を知った道三は怒りをあらわにし、義龍と対決すべく出陣する。こうして弘治2年(1556年)長良川の戦いがはじまった。
だが、この時道三に味方する勢力は少なく、義龍は旧土岐氏の勢力を取り込み有利な条件で合戦に及び、道三方は2,700に対して義龍方17,500ほどの軍勢で攻め立て道三を打ち負かした。そして道三は首をとられ義龍のもとへ届けられた。

別説あり
義龍が父・道三の首実検を行った際「我が身の不徳より出た罪」と出家しこれ以後「はんか(范可/飯賀)」と名乗ったと『信長公記』に記載がある。范可は唐の時代の故事に出てくる人物で、止むを得ない事情により父親を殺した者の名とされてきたという。

織田信長、道三救出に駆けつけるも間に合わず

斎藤道三さいとうどうさんと同盟を結んでいた織田信長は、義龍よしたつ謀反の報に接してただちに道三を救出すべく美濃へ出陣したが間に合わず、美濃大良にまで進軍したところで道三を破り士気の高い義龍軍と対峙した。そこへ岩倉城の織田信安おだのぶやす織田伊勢守家おだいせのかみ)が義龍と呼応し留守の清州付近まで攻め入ったとの報が届いた。信長は自らが殿となって義龍勢の追撃を振り切って尾張へと引き上げた。その途上、岩倉付近を焼き払って退却した。

解説
殿(しんがり)とは負け戦の際に最後まで敵と戦う者たちのことであり、自軍の退却を助ける役割があって危険な役割とされている。退却時、信長は雑人・牛馬を後方に下げると「殿(しんがり)は信長が引き受ける」といって全ての兵を川向うへ退かせ、自身は舟一艘で川に残り、義龍軍の騎馬が川端まで駆け寄ったときに鉄砲を撃った。義龍勢は渡河を断念し信長は退却することができたという。

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    岐阜城

    美濃国の井之口の山(稲葉山)にあった城で、もとは稲葉山城と呼ばれた。鎌倉時代からあるものの、本格的に整備されたのは戦国時代の斎藤道三の頃と考えられている。1567年、織田信長が稲葉山城の戦いにより斎藤龍興から奪取してからは「岐阜城」と改められ一時期において信長の居城となった。

記事に関連する登場人物

  • 斎藤道三

    斎藤道三

    他に、斎藤利政(さいとうとしまさ)とも。 明応3年(1494年?)生~弘治2年4月20日(1556年5月28日)没 美濃の戦国大名。 美濃の蝮という綽名で知られ、主君の土岐頼芸を追放し美濃の国主となる。 尾張の織田信長の娘婿となり同盟関係を結ぶ。 晩年は家督を子の斎藤義龍へ譲るも、義龍に攻められて殺害された。

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