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織田信長【尾張統一編】第四部:村木砦の攻防戦

  • 今川勢の進軍
  • 斎藤道三から送られた将兵
  • 信長の進軍
  • 1

    今川勢、駿府より出陣する

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    西三河へと勢力を拡大した今川義元はさらに支配領域を広げるべくして軍勢を送る。
  • 2

    今川勢、重原城を攻め落とす

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    今川勢まず三河の重原城を落とし、境川を渡って緒川城北方の村木に砦を築いた。
  • 3

    今川勢、村木砦を築く

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    今川義元は尾張への進出を強化し、村木砦を築き、天文23年(1554)正月、織田に味方する国人の水野信元の居城・緒川城の攻略に乗り出す。
  • 4

    水野信元、緒川城にて籠城して戦う

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    織田に援軍を依頼し緒川城に籠城して戦う。
  • 5

    信長、美濃の斎藤道三に留守役の将兵派遣を依頼する

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    水野信元の救援要請を受けて出陣の意を固めた信長は、敵対する清州城から留守の那古野城を守るため、同盟関係にある斎藤道三に将兵の派遣を依頼する。
  • 6

    稲葉山城の斎藤道三、信長に援軍をよこす

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    信長の援軍要請を受けて、斎藤道三は那古野城の留守を守るための将兵の派遣を決め、安藤守成ら1,000名を信長のもとへ派遣する。
  • 7

    熱田湊(熱田神宮のあたり)より海路、緒川城を目指す

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    陸路は敵に塞がれているため、出発当日は熱田神宮に宿泊し、翌日、熱田湊を出て海路緒川城に向かうことになった。荒天であり水夫たちが反対したが強引に船出し、多半島の西岸に上陸、その後陸路を進んで23日に緒川城の水野信元と合流した。
  • 8

    寺本城の周辺を焼き討ちして帰陣

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    村木砦陥落後の正月25日、村木砦陥落の翌日に、今回の今川進出に際して寝返った寺本城の周辺に火を放ち那古野に帰陣した。
【地図】村木砦の戦い

前回の赤塚の戦い

尾張の信長と美濃の斎藤道三さいとうどうさんとが正徳寺で会見し同盟関係を強化していた頃、東方では今川義元いまがわよしもとが東三河より勢力を拡大し、その触手を尾張にまで伸ばしていた。
信長は、かつて父・信秀が亡くなった時に今川方に寝返った鳴海なるみ城主の山口教継やまぐちのりつぐを相手に戦いを挑み(赤塚の戦いあかつかのたたかい)結局のところ鳴海城の奪還を果たせなかった苦い経験があり、さらには尾張方であった沓掛城や大高城までも、教継の調略によって今川方に寝返っていた。

今川勢、さらに水野信元の緒川城を攻撃

今川はさらに尾張への進出を強化し、天文23年(1554)水野信元の居城である緒川城の攻略に乗り出した。水野氏は尾張国緒川から三河国の刈谷にかけての地域を有する国人で、信元の代から織田信秀おだのぶひでに従うようになり今に至っていた。今川勢はまず三河の重原城を落とし、境川を渡って緒川城北方の村木に砦を築いた。また、寺本城の花井氏を調略によって寝返らせ、緒川城に至る陸路を封鎖した。
信長はこれを見捨てることは出来ないと判断し、ただちに軍勢を差し向けることに決めたのだった。

解説
水野信元は徳川家康の伯父にあたる人物で、異母妹は徳川家康の母・於大の方である。父・忠政は今川、松平側についていたが、信元の代から織田家の味方となり、そのことが切っ掛けとなり於大の方と離縁したとされる。

信長、美濃の斎藤道三に那古屋城の留守を委託して出陣する

ただ、ここで一つ問題があった。それは清州城きよすじょうの存在だった。
清州城には尾張守護(国主)の斯波義統しばよしむねとその家臣で守護代の織田信友おだのぶともがいたが、彼らに実権はなく又代の家臣である坂井大膳さかいだいぜんらの傀儡に過ぎなくなっていたが、その坂井らの企てによって起こされた萱津かやつの戦い(萱津古戦場跡かやつこせんじょうあと)では坂井甚助ら主だったものを信長に討ち取られたものの、いまだ清州で健在であった。
彼らは今だ信長に従っておらず、那古野城を空にして出陣するわけにはいかなかった。そこで信長は美濃の斎藤道三さいとうどうさんに協力をもとめ、那古屋城を守備するための軍勢を送ってもらうこととした。こうして、1月20日に道三のもとから安藤守就率いる千程の軍勢が尾張に到着した。信長は彼らを留守居部隊として那古野城の近くにある志賀・田幡に陣取らせ、陣中見舞いをすませたが、この時、家老の林秀貞と美作守の兄弟がこの事に不服を申し立てて、与力の前田与十郎の城へ退去してしまった。信長は「それならそれで構わぬ」とだけいうとそのまま、叔父の信光と共に緒川城へ向けて出陣していった。

解説
斎藤道三は安藤守就に田宮、甲山、安斎、熊沢、物取新五らを加えて「見聞きした状況を毎日報告せよ」と命じたという(「信長公記」より)。

荒海を越えて緒川城に到着

こうして1月21日に信長は那古野を出陣した。那古野から緒川までは20キロあまりで、陸路は今川勢により封鎖されているため、信長は熱田から海路知多半島の西岸へと上陸することにした。
出発当日は熱田(熱田神宮あつたじんぐう)に宿泊し、翌日22日に渡海の予定であったが、その日は予想外の大風であり、船頭や舵取りたちは口々に「渡海は無理にございます」と諫めたが、信長の決意は固く周囲の反対を押し切って渡海を決行した。
船は無事、海路知多半島の西岸へと到着し、その後陸路を進んで23日に緒川城に至り水野信元に会うとが出来た。信長は信元に戦況などを聞き、その日は緒川城にて夜を過ごし、翌24日は夜明けとともに出撃し、午前8時頃に今川勢の立てこもる村木砦に攻めかかった。

解説
信長公記には、この時の信長の言葉として「昔、渡辺・福島で源義経と梶原景時が退却に備えて逆方向に漕ぐ逆櫓をつけるかどうかで争った時もこのくらいの波風だったのだろう」というものがあり、その言葉と共に強引に出航させたという。
この時に出てくる話は「平家物語」で源義経が平家打倒を掲げて京を出立した折に、福島のあたりで暴風雨に会いそのまま海を渡るのは危険なので船尾の櫓とは別に退却用に船頭の櫓をつけるべきと提案する梶原景時に対して、戦う前に逃げることを考えていてはどうにもならないと一蹴し、そのまま出航した源義経の故事によるものである。この時、源氏の率いる船団は200艘ほどあったが、梶原景時に遠慮してか暴風雨を懸念してか、5捜だけが義経に従い、見事、屋島の戦いで勝利を収めたという。

村木砦の攻防戦

村木砦の北側は天然の要害でここに守備兵はなく、東側は砦の表面で、搦め手(裏側)は西側にあたった。南側は甕の形に大きく掘り下げた空堀からなりその守りは強固なものであった。信長は叔父の信光に搦め手への攻撃を依頼する一方、自身は攻めにくい南側の攻撃を担当した。また東側の大手側(表側)は水野信元が担当した。
こうして始まった村木砦攻めは熾烈な激戦となった。
信長方は信長自体が直接采配を取り、南側の堀を我劣らじと堀をよじ登り、突き落とされては登りなど繰り返し死者・負傷者も数知れず、一方、鉄砲隊を使っては取っ替え引っ替え撃たせた。
一方、搦め手(裏側)の織田信光おだのぶみつや大手側(表側)の水野信元の軍勢も砦に詰め寄り激戦が繰り広げられた。砦に籠る今川方も夕方にかけて死者・負傷者の数がおびただしいものとなり、これ以上戦えないと判断して降伏した。信長はこれを聞き届け後の始末を水野信元に託すと兵を引き上げた。
夕暮れ時、本陣に戻った信長はこの日の将兵の働きや死傷者について報告を受けた。信長の小姓衆にも数多くの死者が出て目も当てられない状況であった。信長はこの様子を聞いて涙を流した。

村木砦の戦い後

激戦の翌日、信長は今回の今川の動きに応じて寝返った寺本城の城下を焼き払い那古野に帰陣した。1月26日に信長は那古野城の留守を守っていた安藤守就の陣所に赴くと今回の件についての礼を述べた。その後、守就は美濃に引き上げ斎藤道三さいとうどうさんに信長からの謝意を伝えると共に、村木砦の激戦につきその一部始終を報告した。
道三は「恐るべき男だ。隣国にはいて欲しくない人物よ」といって感心すると同時に警戒感もあらわにした。

管理人ひと言
こうして今川義元の侵攻を食い止めた信長であったが、まだ尾張国内には信長に反抗的な勢力が残っており予断を許さない状況だった。父・信秀は時に敵対する同族を、例え彼らを戦に打ち負かしたとしても許してしまうなどの寛容さがあったが、信長にはそれはなかった。そして態度は次の「安食の戦い」で織田大和守家を滅ぼすことで示されることになる。
安食の戦いに続く。

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