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織田信長【尾張統一編】第一部:織田信秀、死す

織田信秀、死す

天文21年(1552年)3月3日、織田信秀おだのぶひでが末森城にて病没した。
当時19歳の信長の前途は多難であった。
信秀が病没する以前から尾張には、信長の弾正忠家だんじょうのちゅうけのほかに、岩倉城での織田伊勢守家おだいせのかみ織田信安おだのぶやすや、清州城きよすじょう織田大和守家おだやまとのかみけ織田信友おだのぶともがおり、同母弟の織田信行は末森城にあって存在感を増していた。犬山城には叔父の織田信康おだのぶやすの子の織田信清おだのぶきよは半ば独立した勢力としてあった。
尾張国内がこのような状況である一方、駿府の今川義元いまがわよしもとは、信秀が進めていた両国の和睦をなきものとして西三河に勢力を拡大しつつあり、また美濃では、信長の同盟者である斎藤道三さいとうどうさんが長男・斎藤義龍よしたつさいとうよしたつに打たれ敵対する立場に代わっていた。

織田信秀没後における尾張織田家の状況

赤塚の戦い

こうした中で今川義元いまがわよしもとが動きだした。
今川義元は駿河するが遠江とおとうみの2か国を有する東海の雄であり、長年にわたり父・信秀と干戈を交えてきた淑年の間柄である。
その義元が、信秀亡き今、尾張を侵食するべく動き出す。
まず、鳴海なるみ城の山口左馬之助(教継)・九郎二郎(教吉)父子が織田から離反した。

赤塚の戦いの地図解説

まず山口教継やまぐちのりつぐは子の教吉を鳴海なるみ城に置くと、笠寺城を修築して今川方の葛山勝嘉かずらやまかつよし岡部元信おかべもとのぶ三浦義就みうら よしなり飯尾乗連いのお のりつら浅井政敏あざいまさとしを引き入れ、自身は桜中村城に立て籠もった。

管理人ひと言
山口教継は笠寺付近を本拠とする一族で、織田信秀が那古野城を攻略した後に仕えるようになり、信秀からは鳴海城主に任じられるなど信任が厚く、かつては織田と今川との和睦に奔走するなどしていた。

信長は800の軍勢を率いて那古野城を出陣し、中根村を駆け抜け小鳴海なるみに移動すると、三の山へと登った。
そして山口教吉やまぐちのりよしが三の山の東、鳴海から北にある赤塚に1,500の軍勢で出陣して来たのを知った信長は赤塚に進軍し、両者は先陣を繰り出して戦闘に突入した。赤塚の戦いあかつかのたたかいである。
しばし矢戦の後、槍戦となり、巳の刻(午前10時頃)より午の刻(午後12時頃)まで乱戦となった。
あまりの接近戦のため、首を取り合うこともなかった。
元々は味方同士で顔見知り同士の戦いであったため、敵陣に逃げ込んだ馬はお互いに返し合い、生け捕りになった者も交換して帰陣となった。

その後の展開
その後、尾張を離反した山口教継・教吉の父子は駿河の今川義元より呼び出されることになる。恩賞を期待して義元のもとを訪れた二人であったが、無情にも義元は彼らを切腹させてしまう。

一方、清州城きよすじょう織田大和守家おだやまとのかみけの方で動きがあった。
天文21年(1552年)8月15日、織田信友おだのぶともが信長方の松葉城と深田城を攻撃したのだ。
そして、松葉城主の織田伊賀守と深田城主の織田信次を人質とするという暴挙に出た。

その後の展開
結局のところこの戦で信長は鳴海城を奪還することが出来ず、結果として今川の尾張進出を許す結果となってしまったのだった。

(第二部へ続く)

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