かつて
清康が家臣に殺される「森山崩れ」が起きて松平氏が弱体化すると、
その後、
嫡男の竹千代が織田の人質としてとられたのはこの時の事でした。
こうした中で弱体化した松平は松平広忠は今川義元に協力をもとめるようになります。
天文18年(1549年)広忠が病没すると、同年3月に今川義元は太原雪斎率いる約1万の軍勢で安祥城を攻め、何度かの攻撃の末に落城させます。
城代の織田信広は捕縛され、竹千代との人質交換として利用され竹千代は駿府に送られることになります。
安祥城には主のいなくなった松平氏に代わり、今川によって城番が置かれ(天野景泰、井伊直盛)今川の支配下にはいりますが、
桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、再び松平のものとなりました。
その後、織田氏との間に清洲同盟が締結されるようになると安祥城の価値は薄れ、永禄5年(1562年)ごろ廃城となりました。
織田氏と松平氏の争奪戦の対象となった安祥城
このエピソードに関連する史跡
このエピソードに関連する登場人物
織田信秀
永正8年(1511年)生~天文21年3月3日(1552年3月27日)没 尾張の戦国大名。尾張の守護代・織田大和守家の庶流である織田弾正忠家の当主で、織田信長の父。 織田弾正忠家の勢力拡大をはかり、尾張国内はもとより美濃、三河にまで勢力を広げ、後の織田信長の勢力拡大のもとをつくる。尾張国内にあっては、名古屋城を奪い経済都市である津島、熱田を抑え、国外にあっては西三河から美濃大垣城にいたる勢力を獲得するも、晩年は西三河を失い、斎藤道三に敗れるなど窮地に立たされる。家督を嫡男の信長に譲る。
松平広忠
大永6年4月29日(1526年6月9日)生~天文18年3月6日(1549年4月3日)没 三河の戦国大名。徳川家康の父。安城松平家8代当主。 父の松平清康が森山崩れで家臣に殺害された後、岡崎城を奪われ流浪の末に今川の助力により岡崎城にもどるも、尾張の織田信秀と駿河の今川義元の間で臣従を余儀なくされ、嫡子の竹千代(後の徳川家康)を今川・織田の人質として差し出す。 小豆坂の戦いで織田信秀の勢力を撃退するも早世。
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