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比叡山延暦寺

延暦寺はかつては高野山の金剛峯寺と並んで平安仏教の中心寺院であり、日本の歴史に大きな影響をあたえた寺院といえます。
仏教思想的には天台宗の総本山であると同時に、鎌倉新仏教の母体として数多くの名僧を輩出して思想上の影響を与えました。
また政治的には院政期に「強訴」と呼ばれる僧兵の暗躍や、織田信長による焼き討ちなどの出来事もあり宗教・思想上だけの存在ではない「政治性」の高い側面も持ち合わせてきました。
延暦寺という呼び名も、比叡山にある一つの堂宇を指して呼ぶ言葉ではなく、「三塔十六谷」と呼ばれる100ほどの堂塔の総称として呼ばれます。
山全体が大きく3つのエリアに分かれており、それぞれ東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)と呼ばれておりそれぞれに本堂があります。
特に東塔(とうどう)エリアにある「根本中堂」(こんぽんちゅうどう)は延暦寺の中心的仏堂であり、伝教大師・最澄が延暦7年(78年8)に創建した一乗止観院(いちじょうしかんいん)が発展したものとなります。
また、厳しい修行の道場としても存在し「十二年籠山行」や「千日回峰行」などの修行が現代でも続けられています。
平成6年(1994年)「古都京都の文化財」の一環としてユネスコの世界遺産に登録されました。

清水寺

清水寺金閣寺(鹿苑寺)や嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地であり、古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産にも登録されています。歴史的には広隆寺、鞍馬寺とともに平安京遷都以前からの創建1200年以上の歴史をもつ京都では数少ない寺院の1つでもあります。
桜や紅葉の名所としても名高く、年に3回、春・夏・秋のライトアップも楽しめます。
特に本堂の舞台は有名で、懸造り(かけづくり)と呼ばれる日本古来の伝統工法で作られており、音羽山の急峻な崖の上に築かれるなど見どころがあります。「清水の舞台から飛び降りる」という言葉はこの舞台から生まれたもので何か大きな決断をするときに言われる言葉として有名です。
また毎年12月に「その年の漢字」が発表される場所でもあります。

二条城

二条城は、正式名称は元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)ともいい、京都市街にある平城であります。
二条城と呼ばれるものは、戦国時代以前にもありましたが、現存する二条城は徳川時代からのお城であります。

ネスコの世界遺産の「古都京都の文化財」の構成遺産であり、二の丸御殿の6棟が国宝に、また22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財にしてされているのみならず、庭園のうち「二の丸御殿庭園」は特別名勝であり、他にも日本100名城に指定されるなど文化財として大変貴重な存在となっております。

文化財として優れた資産となる二条城ですが、同時にこの城は歴史の節目をいろどった場所でもあります。
歴史的に良く知られた事件としては「大政奉還」があげられます。

大政奉還は最後の将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上した出来事であり、これによって350年続いた徳川幕府は終焉します。
その大政奉還の舞台になったのが、この二条城の二の丸御殿黒書院においてでした。
徳川家康が地上四、彼の将軍宣下に伴う賀儀が開かれたのもこの城においてであったことを考えあわせると、まさに徳川幕府の始まりと終わりを演出した場所であるといえるでしょう?

金閣寺(鹿苑寺)

金閣寺は正式名称を鹿苑寺といい銀閣寺と共に臨済宗相国寺の塔頭(たっちゅう)寺院であり、特に有名なのが建物の内外に金箔が貼られた「舎利殿」ではないでしょうか。
それは、足利幕府の三代将軍・足利義満が描いた極楽浄土の世界そのものでもあります。
もともとは鎌倉時代に権勢をふるった西園寺公経(さいおんじきんつね)の山荘として建立した「北山第」を、足利三代将軍・足利義満が西園寺家没落後に譲り受け、その地に山荘「北山殿」を造営したのがはじまりです。
足利義満の死後、その遺言により禅寺となり、義満の法号である鹿苑院殿より名前を取って鹿苑寺となり、幾度も戦乱と荒廃の時代を経験しつつも今日に伝わっています。

Kinkakuji Temple is officially called Rokuonji Temple.
Together with Ginkakuji, it is the pagoda temple of Shokokuji Temple that is the Rinzai sect of Zen Buddhism.
Especially “Shariden” is famous. it is a building covered in gold leaf inside and out.
It is reminiscent of the world of paradise depicted by Ashikaga Yoshimitsu, the third shogun of the Ashikaga Shogunate.
It was originally the site of the “Kitayama-dai. Kitayama-dai” was a villa of Saionji Kitsune, who wielded power in the Kamakura period.
Ashikaga Yoshimitsu, the third Ashikaga shogun, took over the villa after the downfall of the Saionji family and built Kitayama-den on the site.
After the death of Ashikaga Yoshimitsu, the temple became a Zen temple in accordance with his last will and testament, and was renamed Rokuonji Temple after Yoshimitsu’s Buddhist name, Rokuonji-den, and has survived through many periods of warfare and devastation to this day.

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平安神宮

平安京遷都1100年を記念して1895年に創建されました。
御祭神は平安遷都の当時に天皇であった桓武天皇で、平安京最後の天皇となった孝明天皇もあわせて祀られました。
楼門・社殿は平安時代の朝廷を模したつくりとなっています。
京都五社巡りの中心地としても人気があり、毎年10月22日の時代祭でも有名です。

鶴岡八幡宮

源頼朝ゆかりの神社として有名であり、鎌倉八幡宮とも呼ばれています。
もとは源頼義が1063年(康平6)に京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請し鶴岡若宮を称したのが始まりとされており、源頼朝が1180年(治承4)に現在の地に移し、この宮を中心に鎌倉の町をつくりました。
観光地としてとしても有名で、多くの人たちで賑わっています。

 

 

嚴島神社
原城跡

原城は「島原・天草一揆」(島原の乱)の主戦場として有名な城です。
この一揆がひとつの大きな契機となって日本が鎖国になったのはよく知られる事実です。
もともとこの城はキリシタン大名の有馬氏が北・東・南の三方が海に囲まれ西は低湿地に面する
要害の地に築づいた城であり、その後、有馬氏に代わって領主となった松倉氏により廃城となりました。

大浦天主堂

大浦天主堂は長崎県長崎市にあるカトリック教会で、日本二十六聖人に捧げるために建造された教会であり、一般には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺」の構成文化財のひとつとして有名です。

「日本二十六聖人」というのは、1597年2月5日(慶長元年12月19日)に豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された日本人を含む26人のカトリック信者のことで、後にカトリック教会によって聖人の列に加えられた人たちのです。

またここは、「信徒発見」の地でもあります。「信徒発見」はカトリック史上では有名な話となっており、1865年3月17日、浦上村の潜伏キリシタン十数名が完成して一年後の大浦天主堂を訪れ、堂内にいたプティジャン神父に信仰を告白した事件であり、禁教によって日本に信徒がいなくなったと考えていたヨーロッパの人々に強い衝撃を与えたというものでした。

歴史的にも意義の深い場所なんですね。

彦根城

徳川四天王のひとりで赤備えで有名な井伊直正は、関ヶ原の軍功により石田三成の旧領である近江佐和山18万石を与えられたが、彼自身は関ヶ原の古傷が言えずその翌年に没し、その子の井伊直継が中山道と北陸道が合流し水陸から京へ通日要衝の地に今の彦根城ひこねじょうを立てた。築城は20年にわたって続き元和8年(1622年)に完成した。彦根城が築城される以前に、すでに旧領時代から石田三成が築いた佐和山城があり名城であったが、中世的な縄張りや三成の居城であったことを嫌って用いなかったようである。