長崎と熊本県の天草地方にはキリシタン禁教を乗り越え今に至るキリスト教信仰の伝統とそれを支える教会群があります。また、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産に登録された12の構成資産が存在します。
それらの魅力や見どころなどをご紹介します。
長崎の天草地方の教会と当地の世界遺産を巡る旅
- 登録区分
- 文化遺産
- 登録年
- 2018年(第42回世界遺産委員会)
地図で見る『長崎の天草地方の教会と当地の世界遺産を巡る旅』の史跡一覧
ここに『長崎の天草地方の教会と当地の世界遺産を巡る旅』の関連史跡をご紹介します。
世界遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』を巡る
長崎と天草地方の12の構成遺産
江戸時代の禁教令を生き延びた長崎・天草地方のキリシタン信仰の証をもとめて
2018年7月に世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」をご紹介します。江戸期を通して禁教令により弾圧されてきた長崎と天草地方のキリシタンの信仰のあかしとなる遺産群です。
構成遺産としては以下の通りです。
原城址 / 平戸島の聖地と集落 – 春日集落と安満岳 / 平戸島の聖地と集落 – 中江の島 / 外海の出津集落 / 外海の大野集落 / 黒島の集落 / 野崎島の集落跡 / 頭ヶ島の集落 / 久賀島の集落 / 奈留島の江上集落 – 江上天主堂とその周辺 / 大浦天主堂 / 天草の崎津集落
大浦天主堂
世界の宗教史上にも類を見ない「信徒発見」の舞台
大浦天主堂
世界の宗教史上にも類を見ない「信徒発見」の舞台
もとは長崎居留地(幕末の開国にともなって造成された)に建設された在留外国人のための教会で、中世ヨーロッパ建築を代表するゴシック調の国内現存最古の教会堂でもあります。1864年に建設が始まり、1865年に献堂されました。
献堂直後に浦上の潜伏キリシタンが訪れ信仰を告白した「信徒発見」は有名なエピソードです。
その後、1875年と1879年の増改築により、平面形式と外観デザインも変容し、外壁も木造からレンガ造に変更され、1933年には国宝、原爆による修復が完了した後には、現存する日本最古の教会建築として1953年に再度国宝に指定されました。
外海の出津集落
聖画像をひそかに拝み信仰を続けた
外海の出津集落
聖画像をひそかに拝み信仰を続けた
外海の出津集落 (ソトメノシツシュウラク)では禁教の時代において小規模な潜伏キリシタンの信仰組織が連携し、聖画や教義書、教会暦などを密かに伝承されました。
解禁後は、カトリックへ復帰する者と禁教期の信仰形態を続けるもの(かくれキリシタン)に分かれました。
写真は「出津教会堂」で1882年にド・ロ神父により集落を望む高台に建てられたものです。
外海の大野集落
神道の信仰を装いながら続けた信仰
外海の大野集落
神道の信仰を装いながら続けた信仰
かつてこの地に暮らしていたキリシタンは独自の信仰を続けるために、氏子となった神社に密かに自分たちの信仰対象を祀りオラショと呼ばれる祈りを唱えることで禁教期の弾圧を逃れました。解禁後は禁教期にキリスト教会としての機能を担った神社近くに、大野教会堂が建てられました。
黒島の集落
仏教寺院でマリア観音に祈りを捧げた
黒島の集落
仏教寺院でマリア観音に祈りを捧げた
禁教期に外海などから潜伏キリシタンが移住し、仏教寺院から信仰を黙認されつつも、自分たち自身で組織的に信仰を続けた地として有名です。
解禁後はカトリックへ復帰し、かつて宗教儀礼が行われた指導者の屋敷などを仮の聖堂としていましたが、後にマルマン神父の設計により島の中心に「黒島天主堂」が建てられました。またこの教会は信徒である石工、大工、左官、レンガ職人などの労働奉仕により建設され、1998年には国の重要文化財にも指定されました。
平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
禁教期における潜伏キリシタン集落の様子をうかがわせる歴史的景観
平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
禁教期における潜伏キリシタン集落の様子をうかがわせる歴史的景観
安満岳から伸びる尾根に挟まれた谷状の地形と海に囲まれた集落であり、指導者の家には「納戸」と呼ばれる部屋の中に密かに潜伏キリシタンの信心具が伝承されました。
また、山岳など在来宗教の信仰の場や禁教以前にキリスト教徒の墓地があった丘などを聖地として密かに崇敬されました。
平戸の聖地と集落(中江ノ島)
潜伏キリシタンの処刑が行われた殉教の地
平戸の聖地と集落(中江ノ島)
潜伏キリシタンの処刑が行われた殉教の地
中江ノ島は平戸島北西岸の沖合2キロに位置する長さ400m、幅50mの無人島です。
この島では、禁教時代初期に平戸藩による潜伏キリシタンの処刑が行われた記録があり、殉教地として潜伏キリシタンの崇敬を集めました。岩からしみ出す聖水を採取する「お水取り」が行われた聖地でもあります。
奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)(五島市奈留島)
人里離れた海の近い谷間に移住
奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)(五島市奈留島)
人里離れた海の近い谷間に移住
禁教期において、外海の潜伏キリシタンが海に近い谷間のわずかな平地に移住して固有の信仰を続けた地です。
解禁後はカトリックへ復帰し、禁教期以来の指導者の屋敷を「仮の聖堂」としていましたが、やがて、湧水があり防風に優れた場所に木造の教会「江上天主堂」が建てられました。
久賀島の集落
禁教期に仏教徒との相互関係で信仰を続けた
久賀島の集落
禁教期に仏教徒との相互関係で信仰を続けた
五島列島南部にある久賀島では、禁教期に外海から移住した潜伏キリシタンが仏教集落と相互扶助の関係を築きながら組織的に信仰を続け、「信徒発見」後の厳しい弾圧を乗り越えて海辺に教会を建てるに至りました。
原城跡(南島原市)
「島原・天草一揆」の主戦場となった悲劇の地
原城跡(南島原市)
「島原・天草一揆」の主戦場となった悲劇の地
禁教初期に島原と天草の潜伏キリシタンが蜂起した「島原・天草一揆」の主戦場となった城跡として有名です。
この出来事がきっかけとなり幕府による海禁体制が確立されるようになりましたが、残された潜伏キリシタンが密かに自分たち自身で信仰を続けていく契機ともなりました。
多数の人骨とともに出土した信心具は、禁教後も潜伏キリシタンが密かに信心具を保持し、組織的に結びついていたことを示しています。
野崎島の集落跡(小値賀町)
神道の聖地で信仰を続ける
野崎島の集落跡(小値賀町)
神道の聖地で信仰を続ける
この地では禁教期に移住した潜伏キリシタンが、表向き海上交通の守り神である沖ノ神嶋神社の氏子を装いつつも自分たち自身で組織的に信仰を続けました。解禁後はカトリックへ復帰し、禁教期の指導者の屋敷を「仮の聖堂」として信仰活動を続けつつ、舟森集落には1881年、野首集落には1882年にそれぞれ木造教会堂が建てられました。
写真は「旧野首教会」で野首集落に住む17世帯の信者たちが力を合わせて費用を捻出し、数年をかけて建てた本格的なレンガづくりの教会であります。
頭ヶ島の集落(カシラガシマノシュウラク)
仏教徒の開拓地の指導によりできた集落
頭ヶ島の集落(カシラガシマノシュウラク)
仏教徒の開拓地の指導によりできた集落
禁教期に外海の潜伏キリシタンが、仏教徒の開拓指導者のもと、無人島に移住・開拓し、自分たちで組織的に信仰を続けた地です。解禁後はカトリックへ復帰し、海に近い谷間の奥にある仮御堂跡に自分たちの教会堂である「頭ヶ島天主堂」を建設しました。
天草の﨑津集落(さきつしゅうらく)
アワビやタイラギの貝殻内側の模様を聖母マリアに見立てた独自の信仰を育んだ
天草の﨑津集落(さきつしゅうらく)
アワビやタイラギの貝殻内側の模様を聖母マリアに見立てた独自の信仰を育んだ
禁教期において、潜伏キリシタンが組織的に信仰を続ける中で、アワビやタイラギの貝殻内側の模様を聖母マリアに見立てて崇敬するなど漁村独特の信仰を育みつつ、在来宗教と信仰空間を共有した集落であり、キリスト教解禁後は﨑津諏訪神社の隣に教会堂「﨑津教会」を建築しました。